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毛利都美子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛利 都美子(もうり とみこ、天保4年9月5日1833年10月17日) - 大正2年(1913年2月21日)は、江戸時代後期から大正時代にかけての女性。長州藩第13代藩主毛利敬親正室。長州藩第12代藩主毛利斉広の長女。別名都美姫。のち落飾して妙好と称する。

生涯

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天保4年(1833年)、江戸桜田の長州藩上屋敷にて生まれる。母は側室本多氏。天保7年(1836年)に父・斉広が没し、第11代藩主毛利斉元の子である慶親(敬親)がその養子として跡を継いだが、斉元の生前の意向により、都美姫が敬親の正室となることとなった。弘化4年(1847年)9月、15歳となった都美姫は敬親と婚儀を挙げた。敬親は婿養子でなく(一般の)養子として届け出されていたため、都美姫は斉広の娘(敬親の義妹)でなく一族の娘という扱いになっている[1]

嘉永3年(1850年)7月、女子・万世姫を出産する。しかし、万世姫は生後4か月で夭折した。以後、都美姫は子供に恵まれなかった。また、敬親は都美姫より14歳年上であったため、早くから国許の萩城に花里という側室を置き、その間に1男2女が生まれていたが、いずれも既に夭折していた。このため、支藩徳山藩より敬親の養子に入った元徳安政元年(1857年)に長州藩の世子となった。

文久2年(1862年)に大名妻子の国許居住を許可されたため、翌文久3年(1863年)の春、江戸から国許の長州に下り、山口の居館に入った。江戸生まれの姫には初めての領国入りであった。その後、長州藩は下関戦争禁門の変長州征伐など幕末の激しい世情に飲まれ、都美姫は藩主正室として銃後の守りを担ったという。明治維新から程なくして、明治2年(1869年)に敬親は隠居し、明治4年(1871年)に死去した。のちに都美子は髪を切り、妙好と称した。

明治33年(1900年)、香山公園(瑠璃光寺)の「勅撰銅碑」の前で毛利元昭など毛利一族が撮った集合写真(蔵・毛利博物館)の中央に妙好が写っている[2]

大正2年(1913年)に没した。享年81(満79歳)。戒名は浄華院殿釈尼妙好大姉。

関連作品

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テレビドラマ

参考文献

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  • 「毛利都美子〈毛利敬親・正室〉幕軍との激闘を支えた後方支援」古川薫(『歴史読本』43(10)、1998年10月号、p170-p173)
  • 『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1993年)
  • 大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年

脚注

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  1. ^ 大森、p.174
  2. ^ 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第263回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹(ほっぷ 2015年10月2日号 - 地域情報新聞社)