毛沢覃
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毛沢覃 | |
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プロフィール | |
出生: | 1905年9月25日(清光緒31年8月27日) |
死去: | 1935年4月26日(民国24年4月26日) |
出生地: | 清 湖南省衡州府湘潭県韶山沖 |
死没地: | 中華民国 江西省瑞金県 |
各種表記 | |
繁体字: | 毛澤覃 |
簡体字: | 毛泽覃 |
拼音: | Máo Zétán |
ラテン字: | Mao Zetan |
和名表記: | もう たくたん |
発音転記: | マオ・ツォータン |
毛 沢覃(もう たくたん、1905年9月25日 - 1935年4月26日)は、中国の革命家であり、毛沢東の実弟である。字は潤菊。
生涯
[編集]1905年に清の湖南省衡州府湘潭県韶山沖で生まれた。1918年に長沙に移り、1922年に湖南自修大学に入学し、中国社会主義青年団に加入した。
1923年10月に中国共産党に移籍し、湖南省の常寧・水口山、長沙で労働者運動に従事した。1925年秋に広州に行き、その後、武漢で国民革命軍第四軍政治部の書記になった。1927年8月、南昌蜂起に参加し、蜂起軍の第11軍25師政治部宣伝科長となった。その後、朱徳・陳毅に同行して福建省を転戦した。1932年以降、中国共産党蘇区中央局書記長、中国共産党福建省委員会書記、閩粤贛軍区司令官などを歴任した。1934年10月、中央紅軍の長征の後も、毛沢覃はゲリラ戦を粘り強く続け、中国共産党蘇区分局委員、紅軍独立師団司令官、閩贛軍区司令官となった。
1935年4月26日、江西省瑞金県の紅林山で国民革命軍に包囲されて死亡した。
家族
[編集]妻の賀怡は、毛沢東の妻となった賀子珍の妹である。賀怡との間には毛楚雄(1927-1946)、毛岸成の2人の息子がいる。毛岸成は後に賀麓成に改名し、現在はミサイル専門家となっている[1]。他に、毛沢東と賀子珍の間の子である毛岸紅も養育していたが、毛沢覃の死亡の後は消息不明となっている。
脚注
[編集]- ^ 毛澤覃之子導弾専家賀麓成(毛岸成) アーカイブ 2017年8月21日 - ウェイバックマシン
外部リンク
[編集]- 十対兄弟関係的著名共産党人 アーカイブ 2011年12月11日 - ウェイバックマシン