民訴裁判所主席裁判官
民訴裁判所主席裁判官[1](みんそさいばんしょしゅせきさいばんかん、英: Chief Justice of the Common Pleas)は、イングランド民訴裁判所の長。
解説
[編集]イングランド民訴裁判所はイングランドおよびウェールズのコモン・ロー裁判所の1つであり[2]、主に庶民間の訴訟を担当し、1090年代に成立した[3]。複数の裁判官が裁判を担当したが、やがてそのうちの1人が上席、すなわち主席裁判官とみなされるようになり、最初にそのように呼称される人物は1190年から1207年まで民訴裁判所の裁判官を務めたサイモン・オブ・パティスホールである[3][4]。王座裁判所(1234年設立)との役割分担は最初期には明らかではなかったが、1237年の裁判ではすでに王座裁判所と民訴裁判所の管轄が分けられている様子(弁護側が「民訴裁判所の管轄であるため、王座裁判所の管轄外である」と主張した)がみられ、1272年には完全に分離した[5][6]。この年には両裁判所の裁判記録が分離し、民訴裁判所主席裁判官が正式に任命されるようになった[6]。序列では王座裁判所のほうが上であり、民訴裁判所で判決がなされた事件を王座裁判所に控訴することができた[6]。
以降数世紀にわたって主席裁判官が任命され、清教徒革命など戦乱により裁判が開かれない時期でも任命が続けられた[3]。
1873年裁判所法により裁判制度が改革され、民訴裁判所は1875年に王座裁判所、大法官府裁判所、財務裁判所とともに高等法院に統合され、それぞれ同法院の民訴部、王座部、大法官府部、財務部となった[7]。最後の民訴裁判所主席裁判官である初代コールリッジ男爵ジョン・コールリッジは民訴部主席裁判官に移行したが、1880年に王座部主席裁判官の第12代準男爵サー・アレグザンダー・コウバーン、財務部主席裁判官サー・フィッツロイ・ケリーが死去すると、民訴部と財務部は1881年に枢密院勅令により王座部に統合され[8]、コールリッジも1880年11月29日に王座部主席裁判官に移行した[3]。
一覧
[編集]1272年以前
[編集]- 1217年まで:サイモン・オブ・パティスホール[3]
- 1217年 – 1229年:マーティン・オブ・パティスホール[3]
- 1229年 – 1233年:サー・トマス・オブ・モルトン[3]
- 1233年 – 1234年:ウィリアム・オブ・レイリー[3]
- 1234年 – 1236年:サー・トマス・オブ・モルトン[3]
- 1236年 – 1244年:ロバート・オブ・レキシントン[3]
- 1245年 – 1249年:ヘンリー・オブ・バース[3]
- 1249年 – 1256年:ロジャー・オブ・サークルビー[3]
- 1256年 – 1258年:ヘンリー・オブ・バース[3]
- 1258年 – 1260年:ロジャー・オブ・サークルビー[3]
- 1260年 – 1267年:サー・ギルバート・オブ・プレストン[3]
- 1267年 – 1272年:マーティン・オブ・リトルベリー[3]
1272年 – 1500年
[編集]- 1272年 – 1274年:サー・ギルバート・オブ・プレストン[3]
- 1274年 – 1278年:ロジャー・オブ・シートン[3]
- 1278年 – 1289年:サー・トマス・ウェイランド[3]
- 1289年 – 1290年:サー・ラルフ・サンドウィッチ[3]
- 1290年 – 1301年:ジョン・オブ・メッティンガム[3]
- 1301年 – 1309年:ラルフ・ド・ヘンガム[3]
- 1309年 – 1326年:サー・ウィリアム・ベレフォード[3]
- 1326年:ハーヴィー・ド・スタントン[3]
- 1327年 – 1329年:サー・ウィリアム・ハール[3]
- 1329年 – 1331年:サー・ジョン・ストーナー[3]
- 1331年 – 1333年:サー・ウィリアム・ハール[3]
- 1333年:サー・ヘンリー・ル・スクロープ[3]
- 1333年 – 1335年:サー・ウィリアム・ハール[3]
- 1335年 – 1341年:サー・ジョン・ストーナー[3]
- 1341年 – 1342年:サー・ロジャー・ヒラリー[3]
- 1342年 – 1354年:サー・ジョン・ストーナー[3]
- 1354年 – 1356年:サー・ロジャー・ヒラリー[3]
- 1356年 – 1371年:サー・ロバート・ソープ[3]
- 1371年 – 1374年:サー・ウィリアム・フィンチデン[3]
- 1374年 – 1388年:サー・ロバート・ビールクナップ[3]
- 1388年 – 1395/1396年:サー・ロバート・チャールトン[3]
- 1396年 – 1413年:ウィリアム・サーニング[3]
- 1413年 – 1420年:サー・リチャード・ノートン[3]
- 1423年 – 1436年:サー・ウィリアム・バビントン[3]
- 1436年 – 1439年:サー・ジョン・ジュイン[3]
- 1439年:ジョン・コッテスモア[3]
- 1439年 – 1448年:サー・リチャード・ニュートン[3]
- 1449年 – 1461年:サー・ジョン・プライソット[3]
- 1461年 – 1471年:サー・ロバート・ダンビー[3]
- 1471年 – 1500年:サー・トマス・ブライアン[3]
1500年 – 1660年
[編集]- 1500年 – 1502年:サー・トマス・ウッド[3]
- 1502年 – 1506年:サー・トマス・フロウィック[3]
- 1506年 – 1519年:サー・ロバート・リード[3]
- 1519年 – 1520年:サー・ジョン・アーンリー[3]
- 1520年 – 1530年:サー・ロバート・ブルーデネル[3]
- 1530年 – 1535年:サー・ロバート・ノリッジ[3]
- 1535年 – 1545年:サー・ジョン・ボールドウィン[3]
- 1545年 – 1553年:サー・エドワード・モンタギュー[3]
- 1553年 – 1554年:サー・リチャード・モーガン[3]
- 1554年 – 1558年:サー・ロバート・ブルック[3]
- 1558年 – 1559年:サー・アンソニー・ブラウン[3]
- 1559年 – 1582年:サー・ジェームズ・ダイヤ[3]
- 1582年 – 1605年:サー・エドマンド・アンダーソン[3]
- 1605年:サー・フランシス・ガウディ[3]
- 1606年 – 1613年:サー・エドワード・クック[3]
- 1613年 – 1625年:初代準男爵サー・ヘンリー・ホバート[3]
- 1626年 – 1631年:サー・トマス・リチャードソン[3]
- 1631年 – 1634年:サー・ロバート・ヒース[3]
- 1634年 – 1640年:サー・ジョン・フィンチ[3]
- 1640年 – 1641年:サー・エドワード・リトルトン[3]
- 1641年 – 1644年:サー・ジョン・バンクス[3]
- (議会派の任命)1648年 – 1660年:オリバー・シンジョン[3]
1660年 – 1880年
[編集]- 1660年 – 1667年:初代準男爵サー・オーランド・ブリッジマン[3]
- 1668年 – 1674年:サー・ジョン・ヴォーン[3]
- 1675年 – 1682年:サー・フランシス・ノース[3]
- 1683年:サー・フランシス・ペンバートン[3]
- 1683年 – 1686年:サー・トマス・ジョーンズ[3]
- 1686年 – 1687年:サー・ヘンリー・ベディングフィールド[3]
- 1687年:サー・ロバート・ライト[3]
- 1687年 – 1689年:サー・エドワード・ハーバート[3]
- 1689年 – 1691年:サー・ヘンリー・ポレックスフェン[3]
- 1692年 – 1700年:サー・ジョージ・トレビー[3]
- 1701年 – 1714年:サー・トマス・トレヴァー[3](1712年、トレヴァー男爵に叙爵)
- 1714年 – 1725年:サー・ピーター・キング[3]
- 1725年 – 1735年:サー・ロバート・エア[3]
- 1736年 – 1737年:サー・トマス・リーヴ[3]
- 1737年 – 1761年:サー・ジョン・ウィリス[3]
- 1762年 – 1766年:サー・チャールズ・プラット[3](1765年、カムデン男爵に叙爵)
- 1766年 – 1771年:サー・ジョン・アードリー・ウィルモット[3]
- 1771年 – 1780年:サー・ウィリアム・ド・グレイ[3]
- 1780年 – 1793年:初代ラフバラ男爵アレグザンダー・ウェッダーバーン[3]
- 1793年 – 1799年:サー・ジェームズ・エア[3]
- 1799年 – 1801年:初代エルドン男爵ジョン・スコット[3]
- 1801年 – 1804年:初代アルヴァンリー男爵リチャード・アーデン[3]
- 1804年 – 1814年:サー・ジェームズ・マンスフィールド[3]
- 1814年 – 1818年:サー・ヴィカリー・ギブス[3]
- 1818年 – 1824年:サー・ロバート・ダラス[3]
- 1824年:サー・ロバート・ギフォード[3]
- 1824年 – 1829年:サー・ウィリアム・ベスト[3]
- 1829年 – 1846年:サー・ニコラス・カニンガム・ティンダル[3]
- 1846年 – 1850年:サー・トマス・ワイルド[3]
- 1850年 – 1856年:サー・ジョン・ジャーヴィス[3]
- 1856年 – 1859年:第12代準男爵サー・アレグザンダー・コウバーン[3]
- 1859年 – 1866年:サー・ウィリアム・アール[3]
- 1866年 – 1873年:サー・ウィリアム・ボヴィル[3]
- 1873年 – 1880年:初代コールリッジ男爵ジョン・コールリッジ[3]
- 1880年11月29日、王座部主席裁判官に移行[3]
出典
[編集]- ^ 捧 1987, p. 107.
- ^ 捧 1987, p. 105.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy "Chief justices of the common pleas". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. 11 January 2024 [23 September 2004]. doi:10.1093/ref:odnb/93045。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ Turner, Ralph V. (23 September 2004). "Pattishall [Pateshull], Simon of". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/21544。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ Potter, Harold (1958). Historical Introduction to English Law and Its Institutions (英語) (4th ed.). Sweet & Maxwell. p. 121.
- ^ a b c Taucar, Christopher Edward (2014). The British System of Government and Its Historical Development (英語). McGill-Queen's University Press. p. 61. ISBN 978-0-7735-9656-6。
- ^ 捧 1987, pp. 107–108.
- ^ 捧 1987, p. 108.
参考文献
[編集]- 捧, 剛「19世紀イギリスにおける司法制度の改革——1873年裁判所法の成立過程を中心として——」『一橋研究』第12巻第1号、一橋研究編集委員会、1987年4月、99–111頁、doi:10.15057/6089、ISSN 0286-861X、NCID AN0020798X。