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水野分長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
水野分長
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄5年(1562年
死没 元和9年3月1日1623年3月31日))
改名 幼名:藤次郎
別名 内匠、三左衛門、備後守、弾正忠
戒名 法名:受光院殿実窓英真大居士
墓所 愛知県新城市字裏野 永住寺
官位 従五位
主君 水野忠重蒲生氏郷徳川家康徳川秀忠徳川頼房(付家老)
氏族 水野氏
父母 父:水野忠分、母:某氏
兄弟 分長、長女(尼)、次女(松平家忠室)義忠重央吉勝松平勝政
山口重勝
水野元綱
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水野 分長(みずの わけなが)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名尾張緒川藩主。三河新城藩の初代藩主。新城城主。。弟に水野重央らがいる。正室は山口重勝の娘。子は(長男)。

生涯

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永禄5年(1562年)、尾張国に水野忠分の長男として生まれる。はじめ叔父の水野忠重に属した。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い首級を挙げて武功を挙げた。小田原征伐にも忠重に属して従軍する。その後、水野氏を去って徳川家康の命令で蒲生氏郷に属し、九戸政実の乱で先陣を務め戦功を挙げた。慶長4年(1599年)に家康から呼び戻され大番頭に任じられ、翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに参陣する。

ただし関ヶ原合戦時に大番頭だった記述を否定する資料もある。この場合、分長の大番頭就任は、弟で家康付の大番頭だった重央が徳川頼宣付家老になった慶長13年(1608年)以降になる。

慶長6年(1601年)に父も滞在した尾張緒川藩1万石を与えられた。慶長9年(1604年)に備後守に任ぜられる。慶長11年(1606年)に三河新城に移封され、設楽・宝飯郡内で1万石を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも家康付大番頭として従軍する。元和2年(1616年)に家康が亡くなると徳川秀忠に仕え、近江国栗太郡内で2000石を加増された。元和6年(1620年)に徳川頼房に付けられて水戸藩に移る。この際に新城の領地は長男の元綱に譲り、分長は安房国上総国内で1万5000石を与えられた(近江の領地は収公されている)。

元和9年(1623年)3月1日死去。享年62。死後、安房・上総国内の領地は相続する者がなく収公された。

参考文献

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