水野勝邦
水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日[1])は、日本の華族(子爵)・政治家・中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。旧名は邦で、1924年(大正13年)11月26日、勝邦に改名した[2]。
経歴
[編集]1928年(昭和3年)に学習院を卒業、東京帝国大学文学部に進学して中国に関する研究を行った。外務省派遣中華民国調査員、専修大学講師、外務省在支特別研究員、北支那開発会社調査局嘱託などを歴任。北平(現在の北京)に「水野公館」を開設し日中外交に携わると共に、中国各地を調査し多くの報告書、論文を執筆した[3]。
1939年(昭和14年)7月10日に貴族院子爵議員に選出され[4]、院内会派研究会所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[1]。
1940年(昭和15年)には拓務省委員、1943年(昭和18年)には大東亜省委員に就任し、日中を往復すること36回に及んだが、1944年(昭和19年)末に議会出席のため一時帰国し、戦局悪化のため再び中国の地を踏むことなく終戦をむかえた[5]。
終戦後も1947年(昭和22年)の貴族院廃止まで議員を務めた。1950年(昭和25年)から立正大学経済研究所研究員に迎えられ、翌年、経済学部助教授に就任し教育に従事することとなった(1960年(昭和35年)に教授、1961年(昭和36年)に学部長)。麗澤大学では非常勤講師を務めた。大学では中国経済を中心に講義を行い、またゼミを運営した。経済発展や工業地域の構成、鉄道建設、農業発展と労働力などに関する論文を主に立正大学の『経済学季報』に執筆し、旺盛な研究活動を展開していた。終生中国研究に携わると共に、かつて自らが議員を務めた貴族院の歴史についてまとめ、貴族院研究の基礎を築いた[6]。
著作
[編集]- 『支那事変前の山西省一斑』水野勝邦、1938年3月。 NCID BB10905115。全国書誌番号:46056349。
- 尚友倶楽部 編『貴族院会派「研究会」史』 明治大正編、芙蓉書房出版、2019年11月。ISBN 9784829507766。 NCID BB29315547。全国書誌番号:23305785。
- 尚友倶楽部 編『貴族院会派「研究会」史』 昭和編、芙蓉書房出版、2019年11月。ISBN 9784829507773。 NCID BB29315547。全国書誌番号:23305787。
親族
[編集]父は貴族院の会派・研究会幹部の水野直。妻は長島隆二の次女・可壽子。弟の博は大谷竹次郎の養子となり、戦後には松竹の社長に就任した[7]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 長谷川怜「水野勝邦の中国研究関係資料」『学習院史学』第56号、学習院大学史学会、2018年3月、119-138頁、CRID 1050845763169510656、hdl:10959/00004597、ISSN 02861658。
日本の爵位 | ||
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先代 水野直 |
子爵 (結城)水野家第3代 1929年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |