永井尚知
永井 尚知 | |
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生誕 |
1887年12月26日 (明治20年12月26日) 石川県金沢市笠市町 |
死没 |
1962年7月23日 東京都目黒区上目黒 |
死因 | 急性心筋梗塞 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 石川県第一中学校 |
職業 | 柔道整復師、柔術家 |
流派 |
長尾流躰術 天神真楊流柔術 講道館柔道(七段) 神道六合流柔術 大日本武徳会柔道 一刀流 |
活動拠点 |
永武館(東京市芝区白金三光町) 永盛堂 |
肩書き |
中央接骨師会相談役 目黒柔道会相談役 |
配偶者 | 永井ゆき子 |
親 | 永井喜之男 |
永井 尚知(1887年12月26日 - 1962年7月23日)は、日本の武術家である。
経歴
[編集]1897年12月26日(明治20年)に旧金沢藩士永井喜之男の長男として石川県金沢市に生まれる[1]。
柔術は始め父に就いて長尾流躰術を学んだ。15歳頃から柔剣道を学び、18歳で京都の大日本武徳会に入って柔道を修行した。 20歳で上京して麻布獣医学校柔道部の教官に任命された。当時、麻布にあった帝國尚武會の野口清が旅行中不在であったため、野口の代理として柔術師範を務めた[2]。
1909年(明治42年)から帝国尚武会より神道六合流柔術の教授書を出版している。また憲兵司令部の柔道教授も務めていた。その後、独立して東京府の下渋谷に柔道場を設けて柔道教授を行っっていたが、二年後に郷里に帰り石川県小松県立中学校に招聘され柔道教官となった。また各中学校や警察署の師範も務めていた。
小松中学校を辞してから再び上京し柔道家の恒石の代理師範をし、後に独立して東京市芝区白金三光町に永武館道場及び永盛堂(整骨院)を開設した。子弟教育の傍ら高輪中学、高輪商業、高輪警察署柔道講師として指導していた。
永井尚知が学んだ武術は長尾流躰術、大日本武徳会柔道、神道六合流の他に天神真楊流と講道館柔道(最終段位は七段[3])、剣道は一刀流の免許を持っていた。
著名な弟子に空手家の小西康裕がいる。1920年(大正9年)小西は永武館柔道五段を永井尚知から允許された。小西は多くの師範から様々な武術を学んでいるが本当の師匠は永井尚知であったとされる[4]。
また武術以外にも狩猟や犬などにも通じておりジャパンケネルクラブのドイツシェパード犬協会日本地本部審査員を務めた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ ラヂオ協会 編『日本ラヂオ総覧』ラヂオ協会、1929年
- ^ 東京日日通信社 編『昭和大典記念 自治産業発達史』東京日日通信社、1928年
- ^ 工藤雷介 著『改訂普及版 秘録日本柔道』東京スポーツ新聞社、1975
- ^ 「松岡龍雄VS藤原稜三(最終回)」、『近代空手』1986年1月号 ベースボールマガジン社
参考文献
[編集]- 永井尚知 著『帝國尚武會制定型圖解』帝國尚武會、1909年
- 永井尚知 著『甲種科教授書』帝國尚武會、1910年
- 永井尚知 著『乙種科教授書』帝國尚武會、1910年
- 永井尚知 著『丙種科教授書』帝國尚武會、1910年
- 医事時論社 編『日本医籍録』医事時論社、1925年
- 東京府市政通信社 編『東京府市自治大鑑 前,後巻』東京府市政通信社、1926年
- 東京日日通信社 編『昭和大典記念 自治産業発達史』東京日日通信社、1928年
- ラヂオ協会 編『日本ラヂオ総覧』ラヂオ協会、1929年
- 小西康裕 著『入門新書 図解空手入門』川津書店、1953年
- 誠文堂新光社愛犬の友編集部 編『最新シェパード犬百科事典』誠文堂新光社、1956
- 小西康裕 著『やさしい空手のならい方』川津書店、1957年
- 工藤雷介 著『改訂普及版 秘録日本柔道』東京スポーツ新聞社、1975年
- 東京都柔道整復師会 編『東京都柔道整復師会六十年史』東京都柔道整復師会、1980年
- 「松岡龍雄VS藤原稜三(最終回)」、『近代空手』1986年1月号 ベースボールマガジン社