永遠のいのち
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 (2010年4月) |
永遠のいのち (The Eternal Life, The Everlasting Life) とは、人が持つ生物学的ないのちとは種類を異にするいのちで「キリストのいのち」、「御霊のいのち」などとも呼ばれる。「永遠のいのち」とは、単なる死後のいのち、彼の世におけるいのちではない。聖書が「信じる者は永遠のいのちを持ちます」(ヨハネ6:47、ここに「持ちます」は現在形)と言うように、キリストを信じるとき、即時にこの世で享受することのできるいのちである。それゆえ、キリストに依り頼んだ人々は「新生」し、霊の誕生を持ったと言われる。クリスチャンは肉体の誕生日と霊の誕生日と言う二つの誕生日を持っている。
永遠のいのちとは「唯一のまことの神とイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)とあるように、永遠のいのちはキリストを通して(ヨハネ14:6)いのちの源である神との人格的な交わりを持つことにある。キリストの葡萄の幹とその枝とのたとえ(ヨハネ15:1~12)は、その真理をやさしく適切に教えている。
クリスチャンがクリスチャンらしく、この曲がれる邪悪な世と言われる世にあって、真っ直ぐに罪に打ち勝って生きることのできるのは、単に人間的な努力によるのではなく、永遠のいのち、キリストにあるいのち、御霊のいのちに与っているからであるとされる。
聖書では、同じ用語が、文脈によって異なった面から語られることがしばしばあり、「永遠のいのち」に関しても同様である。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」(テモテへの第一の手紙6:12)では「永遠のいのち」が、明らかに、信仰生涯の終わりに与えられるもの、として述べられている。この場合「永遠のいのち」は、来世のいのちと考えるべきであろう。
改革派神学では『「永遠の」いのち』であるので、一度、それに与ったなら、そのいのちは失われることはないと教える。そこから信仰者の永久保全という教理が導き出される。アルミニアン神学では、聖書が信仰からの脱落・背教の危険を警告しているので、永遠のいのちを失う可能性を否定できないと判断している。ただ背教の可能性はあっても、神の御守りによって永遠のいのちへの条件である信仰を失わないでいることができるとも教えている。