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江木理一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
えぎ りいち
江木 理一
プロフィール
出身地 日本の旗 日本
生年月日 1890年4月10日
没年月日 1970年2月16日(79歳没)
最終学歴 陸軍戸山学校卒業
職歴 陸軍戸山学校軍楽隊 三等楽長
活動期間 1928年 - 1939年
担当番組・活動
出演経歴ラジオ体操

江木 理一(えぎ りいち、1890年明治23年〉4月10日 - 1970年昭和45年〉2月16日[1][2])は日本の軍人NHKアナウンサー

ラジオ体操の初代担当アナウンサーとして知られている。

人物・エピソード

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福島県出身[1]陸軍戸山学校[1][2]。専門は軍楽で、フルート奏者だった[3]。母校・陸軍戸山学校軍楽隊の三等楽長少尉相当)だった1928年昭和天皇御大典記念事業新番組『ラジオ体操』の「指導」を担当する放送員として、社団法人日本放送協会(NHK)東京中央放送局に入局[3](同期に橘内英次(旧姓・石母田)、薄田太郎津島定一三原登美(旧姓・河村))。

同年11月1日の第1回放送時、江木はサーベルを下げた軍服姿で放送局に現れ、「気をつけ! ただ今からラジオ体操を始めます」という号令調の第一声をかけ、不評を買った。翌日からの江木は態度を改め、体操着姿でスタジオに入り、「皆さん、おはようございます」とにこやかに語りかけるように調子を変えた[3]。やがて定着した「全国の皆さーん、おはようございます。さあ、きょうも元気で、体操を始めていただきましょう」という独特の口調の号令は、国民に大人気となった。

号令をかけるだけでなく、実際にマイクの前で体操をしていた[4]。体操着姿がトレードマークだったが、一時期「照宮成子内親王もラジオ体操に御執心なり」と聞きおよび、燕尾服蝶ネクタイの正装で放送に臨んだことがあった。

江木は毎日必ず4時30分に起床し、5時ちょうどに牛込区南山伏町の自宅を出て、始発の都電でNHKに出勤した[3]。一度40度の高熱を押して出勤したことがあり、本番直前までスタジオで横になり、無事に本番を終えると、その場で倒れた[4]

1936年2月26日早朝の二・二六事件の発生時、愛宕山にあった放送局に出勤する江木の行く手を、決起部隊の兵士がさえぎった。江木が一言「ラジオ体操をやりに行くんだ」とだけ告げたところ、道が開けたとの逸話がある[5]

1939年4月末の引退まで約10年間、無欠勤で担当した[2][3]。番組引退後は、長年にわたり、全国各地に巡回ラジオ体操に出かけ、ラジオ体操の普及につとめた[1]

1943年東京都議会議員選挙中野区から立候補して当選した[6]1947年第1回参議院議員通常選挙全国区から立候補したが落選した[7][8]

1953年ライオン株式会社が「はみがき体操」のレコードを改訂した際、号令と指揮の役で出演している。<https://www.lion.co.jp/ja/company/history/museum/04/02.php>

脚注

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  1. ^ a b c d 江木 理一』 - コトバンク - 典拠は日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』。誕生日を7月13日としている。
  2. ^ a b c 江木理一』 - コトバンク - 典拠は講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』。誕生日を4月10日としている。
  3. ^ a b c d e 日本放送協会(編)『放送の五十年 昭和とともに』(日本放送出版協会、1977年)pp.40-42「ラジオ体操誕生」
  4. ^ a b 松谷みよ子『現代民話考 8 ラジオ・テレビ局の笑いと怪談』(ちくま文庫、2003年)pp.270-271 - 典拠は和田信賢『放送ばなし』(青山商店出版部、1946年)。
  5. ^ NHK広報室「ご存知ですか ラジオ体操五十年」『都道府県展望』第8巻第239号、全国知事会、1978年8月、33頁。 
  6. ^ 中野区史 下巻1』東京都中野区、1944年、373頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3007620/203 
  7. ^ 新国会選挙大観』朝日新聞社、1947年、130頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438964/72 
  8. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年、539頁。 

外部リンク

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