江馬細香
江馬 細香(えま さいこう、天明7年4月4日(1787年5月20日) - 文久元年9月4日(1861年10月7日))は、江戸時代の女性文人(漢詩人・文人画家)。頼山陽・浦上春琴の門人。名は裊(「多保」とも書く)、字は細香、号は湘夢[1]。別号に箕山・緑玉もある。
略歴
[編集]天明7年(1787年)5月20日、美濃大垣藤江村に、大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。少女の頃から画を好み、初め平安(京都)永観堂の僧玉潾に師事して墨竹画を学んだ[2]。
文化10年(1813年)の10月、頼山陽・浦上春琴が大垣に来遊した折りに笑社の社中となり、これより以後は詩を山陽に、画を春琴から学ぶようになる[3]。大垣を離れることが叶わなかった細香は書簡による指導を受け、山陽批正(頼山陽没後は浦上春琴・後藤松陰批正)の詩稿の多くが現存する[4]。
文政初年頃、梁川星巌・梁川紅蘭・村瀬藤城らと詩社「白鷗社」を結成し、弘化年間には「黎祁吟社」、嘉永年間には小原鉄心らと「咬菜社」を結成し、美濃詩壇の中心人物として活躍した。嘉永4年(1851年)に編まれた『黎祁吟社三集』の抄本(冊子)は現存する[5]。
文政4年(1821年)、山陽が書簡にて「十声十影」詩の浄書を依頼し、翌年に上洛した際には「論詩声律集」の浄書もおこなっている[6]。
文政7年(1824年)、村瀬秋水が大垣の江馬家に二日間滞在[7]。秋水の兄であった村瀬藤城と「白鷗社」において詩のやりとりをする一方、弟の秋水とは南宗画について議論する、という社友の交流は生涯続いた。
天保元年(1830年)閏3月13日、山陽が帰郷する細香を琵琶湖畔まで見送り、唐崎松下にて別れた際、「唐崎の松下、山陽先生に拝し別る」詩の尾聯に「二十年中 七度の別れ、 未だ有らず この別れの尤も説き難きは」(二十年中七度別、未有此別尤難説)と詠じ、山陽は「好箇の短古一篇、今の詩人の作らざる所、亦た解せざる所なり」と評している[8]。この後、山陽は天保3年(1832年)9月23日に53歳で病没した。
天保4年(1833年)の8月に上洛して頼家を弔問し、浦上春琴・小石元瑞・山本梅逸・小田海僊・金子雪操ら社友たちと鴨川の水亭にて観月する[9]。また、この年の冬、社友の貫名海屋が大垣に立ち寄っている[10]。
天保9年(1838年)の正月、頼立斎宅にて社友が集まり、年始の揮毫をする[11]。
天保12年(1841年)、山陽の在世時より社中で話題となった小石元瑞旧蔵の陳曾則筆「坐雨蔵山図」[12]を臨写する。
弘化3年(1846年)5月2日に浦上春琴が病没し、同年8月13日、後藤松陰が浦上春琴の哭詩(「哭春琴画伯」)を批正。
嘉永元年(1848年)、詩社「咬菜社」を作り、細香が社主となる。
安政5年(1858年)、頼三樹三郎(頼山陽の三男)が幕吏に追われ、大垣で小原鉄心や細香がかくまうが、9月2日に梁川星巖が病没して妻の紅蘭と三樹三郎が捕らえられ、翌年の10月に三樹三郎が処刑される。
文久元年(1861年)9月4日、脳出血により没。禅桂寺蘭齋墓の鄰に葬られ、後藤松陰が細香墓誌を書いている。
書画(公開作品)
[編集]- 「竹石芝蘭図」〔56歳〕(個人蔵)[13]
- 「雪圧銀梢図」〔43歳〕
- 「凌波僊子図」〔47歳〕[14]
- 「竹窓聴風図」〔59歳〕
- 「叢竹詩意図」〔66歳〕
- 「清伴詩意図」〔66歳〕
- 「漁村夕照図」〔67歳〕
- 「裊裊腰枝図」〔72歳〕
- 「幽谷蘭竹図」〔72歳〕[15]
- 「雪中梅花図」〔73歳〕
- 「山高水長図」〔73歳〕
- 「琴客訪王図」〔73歳〕(以上文人画研究会蔵)[16]
著作および影印
[編集]- 江馬細香撰『湘夢遺稿』二巻二冊(1871年)
- 徳富蘇峰序・解説/木崎好尚校注『山陽先生朱批 細香女史詩稿』(民友社 1928年)
- 復刻版『湘夢遺稿』二巻二冊(大垣市文化財協会 1960年)
- 富士川英郎編『詩集日本漢詩 第15巻 湘夢遺稿』(汲古書院 1989年12月)
- 江馬寿美子原本所蔵/小林徹行解題/江馬細香著『山陽先生批点湘夢詩草』(汲古書院 1997年7月)
選録本詩集
[編集]- 菊池五山編『五山堂詩話』[17]巻五:曉起・冬夜
- 水上珍亮編『日本閨媛吟藻』(1880年刊)上巻:曉起・冬夜・讀源語二首・画山水・觀花於嵐山・謝寛齋先生見惠折枝牡丹花
- 清・兪樾撰『東瀛詩選』(1883年刊)巻四十:所収詩27首
- 湖山居士手録『湖山楼詩屏風』三集(1886年刊):題自畫・惜春・冬夜・
参考文献
[編集]- 中野効四郎監修・吉岡勲校閲『新修大垣市史』通史編一(大垣市 1968年4月1日)
- 江馬文書研究会編『江馬文書目録』(江馬文書研究会 1976年5月15日)
- 木崎愛吉・頼成一共編『頼山陽全書』(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1931年)
- 江馬文書研究会編『江馬細香来簡集』(思文閣出版 1988年6月)
- 伊藤信著・矢橋龍吉校編『細香と紅蘭』(矢橋龍吉私家版 1969年)
- 冨長蝶如『美濃大垣の先賢』所収「江馬細香」(大垣南ライオンズ 1979年)
- 大垣市文化会館『蘭斎と細香』(大垣の先賢展図録 大垣市 1979年)
- 福島理子「閨秀詩人 江馬細香」(『語文』第50輯 1988年)
- 入谷仙介監修・門玲子訳注『江馬細香詩集「湘夢遺稿」』(汲古書院 1992年/改訂版 1994年)
- 福島理子注『江戸漢詩選 第3巻 女流 江馬細香・原采蘋・梁川紅蘭』(岩波書店 1995年9月)
- 門玲子「江馬細香『湘夢遺稿』の刻費及諸入費控えについて」(『東海近世文学』7 1995)
- 門玲子監修『江戸の閨秀詩・画人江馬細香展』大垣の先賢展図録(大垣市 1996年)
- 小林徹行「江馬細香自筆写本管見 ―江馬家所蔵『細香蔵書目録』と残存文献―」(古典研究会編『汲古』第29号 1996年)
- 小林徹行「『湘夢詩草』にみえる中国女流詩人の影」(和漢比較文学会編『和漢比較文学』第17号 1996年)
- 小林徹行「閨詞と閨怨詩」(全国漢文教育学会編『新しい漢文教育』第23号 1996年)
- Hiroaki Sato(佐藤絋彰)“Breeze Through Bamboo”(Columbia University Press 1997年)
- 小林徹行「頼山陽の女弟子 江馬細香」(大修館書店『しにか』85 1997年)
- 幸田正孝「江馬細香の『蘭化先生伝』」(『豊田工業高等専門学校研究紀要』33 2000年)
- 鄭麗芸『文人逸脱の書 池大雅・江馬細香・三輪田米山』(あるむ 2008年5月)
- 岐阜県所在史料目録 第58集『江馬寿美子家文書目録』(岐阜県歴史資料館 2009年)
- 許永晝・小林詔子・森田聖子編著『読画入門―浦上春琴の論画詩に学ぶ』(文人画研究会 2010年)
- 許永晝・森田聖子・小林詔子・市川尚編『笑社論集』(文人画研究会 2021年)
小説・伝記
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]脚注
[編集]- ^ 『新修大垣市史』通史編1(778~780頁)。
- ^ 『新修大垣市史』通史編1(778頁)。
- ^ 木崎愛吉・頼成一共編『頼山陽全書』全伝・文化十年。
- ^ 岐阜県所在史料目録 第58集『江馬寿美子家文書目録』56~64頁参照。
- ^ 岐阜県所在史料目録 第58集『江馬寿美子家文書目録』63頁掲載。
- ^ 『笑社論集』(『論詩声律集』解説)文人画研究会、2021年9月26日。
- ^ 文政7年12月の詩稿にみえる「秋水山人至京路、次阻雨信宿吾家」詩に拠る。
- ^ 「二十年中七度別」とは、細香が上洛した文化11年・文化14年・文政2年・文政5年・文政7年・文政10年・天保元年をいう。
- ^ 『湘夢遺稿』下巻所収「中秋賞月於鴨東」詩参照。
- ^ 『湘夢遺稿』下巻所収「海屋先生留旅窓所挿梅花而去」詩参照。
- ^ 「霊蛇在握書画帖」(文人画研究会蔵)には、細香の他、篠崎小竹・小石元瑞・広末雲華・山本梅逸・大雅堂清亮・浦上春琴・香川景樹・大雅堂義亮・上杉墨水・田辺玄玄・月峰(大雅堂辰亮)・小原端木・小田海僲・大倉笠山・大倉袖蘭・塩川文麟・斎藤畸庵・白井赤水・池本顕実・西山芳園・岸琴泉の揮毫があり、巻頭に小竹の題辞、巻末に頼立斎(頼山陽の又従弟)による参加者名簿を附記、岸琴泉の跋がある。本画帖については、文人画研究会が2011年の文人画展「春琴の門人たち」で公開。
- ^ 静嘉堂文庫美術館蔵。『日本の文人画展Ⅰ』(平成七年四月八日発行)掲載。
- ^ 鄭麗芸『文人逸脱の書 池大雅・江馬細香・三輪田米山』(あるむ 2008年5月)に掲載。
- ^ 文人画研究会編『読画塾』第8号(文人画研究会 2017年)47頁に「凌波僊子」の解説がある。
- ^ 文人画研究会編『読画塾』第8号(文人画研究会 2017年)14~20頁に安政4年の詩稿が掲載され、構図についての詳細な解説がみえる。
- ^ 文人画研究会編『読画塾』第8号(文人画研究会 2017年)に画像掲載。
- ^ 文化4年(1807年)から天保3年(1832年)にかけて刊行。
- ^ 細香が頼山陽にとって社中の一人であったことから、頼山陽の愛人とする巷の俗説を小説にしたものである。
- ^ 上記の南条範夫『細香日記』のような俗説に反駁し、ジェンダーの立場から書かれた門玲子の歴史小説。