池上映画劇場
池上映画劇場 Ikegami Eiga | |
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情報 | |
正式名称 | 池上映画劇場 |
完成 | 1955年 |
開館 | 1955年 |
閉館 | 1965年 |
収容人員 | 389人 |
用途 | 映画上映 |
所在地 |
〒146 東京都大田区池上徳持町72番地1号 |
最寄駅 | 東急池上線池上駅 |
池上映画劇場(いけがみえいがげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6]。第二次世界大戦後の1955年(昭和30年)、東京都大田区の池上駅のすぐ前に蔡火盛が新設・開館した[1][7]。中央区銀座6丁目の宝石店「銀水堂」と同列経営の映画館として知られ[8]、プロボクサー斎藤清作としてデビューする前のたこ八郎が上京後最初に勤めた同店から、同館に配転になったことでも知られる[9][10]。1965年(昭和40年)には閉館した[6][11]。
沿革
[編集]データ
[編集]- 所在地 : 東京都大田区池上徳持町72番地1号[1][3][4][5][6]
- 経営 : 蔡火盛 (1955年[1] - 1965年[3][4][5][6])
- 支配人 : 滝沢恵吉 (1955年[1] - 1965年[3][4][5][6])
- 構造 : 木造一階建 [1][3][4][5][6]
- 観客定員数 : 320名(1956年[1]) ⇒ 389名(1961年[3])
概要
[編集]第二次世界大戦後の1955年(昭和30年)、東京都大田区池上徳持町72番地1号(現在の池上6丁目5番10号)、東急電鉄池上線池上駅のすぐ前の地に、蔡火盛が新設・開館した[1][7]。同館の経営は蔡火盛の個人経営、支配人は滝沢恵吉、観客定員数320名、木造一階建の映画館であり、興行系統は東映系であった[1]。池上駅は、蒲田駅から池上本門寺への参拝客を輸送する池上電気鉄道の終点として1922年(大正11年)10月6日に開通していたが、戦前においては同駅近辺に映画館はなく[16]、同館が初めての映画館であった[1][7]。同館を設立した蔡火盛は、同年、新橋駅のガード下に、ニュース映画・短篇映画の専門館として、新橋ニュース劇場(のちの新橋ロマン劇場、観客定員数88名、港区芝新橋3丁目6番地)を設立しており、同館の支配人の滝沢恵吉は、新橋の支配人も兼任した[1][7]。
1958年(昭和33年)前後に、池上徳持町内に東映系専門館として池上東映(現在の池上7丁目1番11号、「ライオンズマンション池上駅前通り」の位置[17])が開館するころには、同館は大映および東宝の上映館に興行系統を変えているが、池上東映は数年で閉館、建物は市場に変わった。芦田均の遺した『芦田均日記』の1952年(昭和27年)1月から2月にかけて、小林博という人物が「池上の映画館開設」について、芦田に関係者を会せたり、紹介状を書くよう頼みに訪れているが[18]、これらが同館設立の準備なのか、のちの池上東映だったのかについては記述はない[18]。
笹崎ボクシングジムに入門、プロボクサー斎藤清作としてデビューする前年の1959年(昭和34年)3月、仙台の高校を卒業したたこ八郎(1940年 - 1985年)が、上京して初めて就職したのが宝石店「銀水堂」(中央区銀座6丁目)であった[9][10]。「銀水堂」の経営者の蔡火欽は台湾出身で、1957年(昭和32年)6月までの時点では、同宝石店のほか港区芝田村町(現在の西新橋)に旅館を経営していたという[8]。たこ八郎は、同店と同列経営であることから、その後この池上映画劇場に配転された[9][10]。「支配人見習」とのことであったが、他館との掛け持ち上映を行うため、上映用プリントを自転車で運ぶ仕事をさせられたという[9][10]。たこ八郎が同館に勤務したのはわずかな期間であり、転職を繰り返して同年暮れにはジム入り、1960年(昭和32年)9月にはプロデビューした。同館の経営者である蔡火盛、蔡火欽の両名は、1968年(昭和43年・民國57年)に台湾・彰化県彰化市の国民小学である彰化県立中山国民小学に図書館を寄贈しており、1991年(平成3年・民國80年)7月22日、同校に「校友蔡火欽獎學金」を設立した人物として記録されている[19]。
1965年(昭和40年)には閉館した[6][11]。跡地には1984年(昭和59年)11月にマンション「アクスル池上」(5階建)が竣工し、現在に至る(2022年6月)[12][13][14]。かつて同町内に存在した池上東映の跡地に「ライオンズマンション池上駅前通り」が建ったのは、1986年(昭和61年)11月であった[17]。同館の開館から閉館まで支配人を務めた滝沢恵吉は、3館体制になった新橋ニュース劇場・新橋文化劇場・新橋第三劇場の支配人に専念した[6][11]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 便覧[1956], p.2.
- ^ 昭和32年の映画館 東京都 573館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1957年1月1日号)、2014年7月11日閲覧。
- ^ a b c d e f 便覧[1961], p.7, 15.
- ^ a b c d e 便覧[1962], p.7, 15.
- ^ a b c d e 便覧[1964], p.7, 12.
- ^ a b c d e f g h i 便覧[1965], p.7, 15.
- ^ a b c d e 総覧[1955], p.4-5, 10-11.
- ^ a b 経済往来[1957], p.112.
- ^ a b c d 立松[1986], p.92.
- ^ a b c d 福島[1999], p.183.
- ^ a b c d 便覧[1966], p.7, 15.
- ^ a b 東京都大田区池上6丁目5番10号、Google ストリートビュー、2013年6月撮影、2014年7月11日閲覧。
- ^ a b 東京都大田区池上6丁目5番10号、Goo地図、1947年・1963年撮影、2014年7月11日閲覧。
- ^ a b アクスル池上、smocca.jp, じげん、2014年7月11日閲覧。
- ^ 血槍富士、日本映画データベース、2014年7月10日閲覧。
- ^ 年鑑[1942], p.10_37-38.
- ^ a b ライオンズマンション池上駅前通り、SUUMO物件ライブラリー、リクルート、2014年7月11日閲覧。
- ^ a b 芦田[1991], p.85, 95, 99.
- ^ 中山國小時期 、中山國小校史室、2014年7月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
- 『映画年鑑 1956 別冊 映画便覧』、時事通信社、1956年発行
- 『経済往来』第9巻第6号通巻213号、経済往来社、1957年6月発行
- 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事通信社、1961年発行
- 『映画年鑑 1962 別冊 映画便覧』、時事通信社、1962年発行
- 『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』、時事通信社、1964年発行
- 『映画年鑑 1965 別冊 映画便覧』、時事通信社、1965年発行
- 『映画年鑑 1966 別冊 映画便覧』、時事通信社、1966年発行
- 『たこでーす。 オレが主役でいいのかなぁ』、たこ八郎、アス出版、1984年4月 ISBN 4900402036
- 『世紀末通りの人びと』、立松和平、毎日新聞社、1986年8月 ISBN 4620305375
- 『芦田均日記 第四巻 民主党から改進党へ - 再軍備運動と保守再編』、芦田均、岩波書店、1991年12月 ISBN 4000087541
- 『福島泰樹全歌集』、福島泰樹、河出書房新社、1999年6月 ISBN 4309012817
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 東京都大田区池上6丁目5番10号 - 2013年6月時点の同館跡地 (Google マップ・Google ストリートビュー)
- 東京都大田区池上6丁目5番10号 - 1947年・1963年時点の航空写真(Goo地図)
- 池上映画劇場 - 昭和毎日(毎日新聞社)