池坊
池坊(いけのぼう)は、日本の華道家元。いけばなの根源。“流”は付かない。最古かつ最大の会員数を誇る。紫雲山頂法寺(京都市中京区、通称六角堂)の住職が家元を兼ねる。池坊の名称は、聖徳太子が沐浴した池に由来している。
沿革
[編集]頂法寺(六角堂)の寺伝縁起から、同寺が建立されたとされる用明天皇2年(587年)を池坊は創業年としているが、史学的な根拠は無い。そもそも1974年(昭和49年)から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、六角堂の実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。
聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えた。これが華道の由来とされ、妹子の寺坊が池のほとりにあったことから「池坊」と呼ばれたとされている。ただし、頂法寺の縁起類には、聖徳太子が沐浴した池にちなんで寺坊を「池坊」と号したことと、小野妹子を寺主としたことは述べられているが、妹子と華道の関係については述べられていない。小野妹子を華道の道祖とするのは、史料で知られる限りでは近世以降のことである。
池坊といけばなの関連についての文献上の初見は寛正3年(1462年)である。池坊の僧は、頂法寺(六角堂)の執行(しぎょう)として六角堂の本尊如意輪観音に花を供えることとなっていた。東福寺の僧雲泉太極の日記『碧山日録』の寛正3年2月25日条に、池坊12世池坊専慶が草花数十枝を金瓶に挿し、京都の好事家の評判を呼んだ、とある。この12世専慶が立花(たてばな)の名手として知られ、専慶から池坊としての立花が生じた。天文11年(1542年)には、次代の専応が花伝書『池坊専応口伝』を著して立花の理論と技術を体系化した。専応の後、専栄、専好(初代)、専好(二代)によって立花が大成された。江戸時代中期には、立花よりも簡略な生花(しょうか)が成立し、門弟の大幅な増加に繋がった。現在は、自由花(じゆうか)を加え三つの様式がある。
様式
[編集]- 立花(りっか)
- 立花正風体(りっかしょうふうたい)⇒伝統的な様式。
- 立花新風体(りっかしんぷうたい)⇒池坊専永が発表。
- 生花(しょうか)
- 生花正風体(しょうかしょうふうたい)⇒伝統的な様式。
- 生花新風体(しょうかしんぷうたい)⇒池坊専永が発表。
- 自由花(じゆうか)
- かつては応用花、投入(なげいれ)、盛花(もりばな)とも称されていた。
江戸時代以降の歴代家元
[編集]- 31世 池坊専好(初代)
- 32世 池坊専好(二代)
- 33世 池坊専存
- 34世 池坊専養
- 35世 池坊専好(三代)
- 36世 池坊専純
- 37世 池坊専意
- 38世 池坊専純〔再任〕
- 39世 池坊専弘
- 40世 池坊専定
- 41世 池坊専明
- 42世 池坊専正
- 43世 池坊専啓(1869-1944) - 油小路隆董の次男[1]、池坊専正の養子(旧名・油小路隆定)[2]
- 44世 池坊専威(1900-1945) - 油小路隆元の子、池坊専啓の甥で養子(旧名・油小路隆久)[3]
- 45世 池坊専永(現家元)
- 46世 池坊専好(池坊初の女性の家元)
池坊 花逍遥(しょうよう)100選プロジェクト
[編集]- 花き産業と花きの文化の振興を目的とした「花きの振興に関する法律」(平成26年法律第102号)が成立し、平成26年12月1日より施行された[4]ことより池坊華道会は、全国の花風景を募集し、応募のあった1200ヶ所より「華道の精神を映している」「未来にのこしたい」の双方の条件を満足する100ヶ所を池坊 花逍遥100選として認定した[5]。今後、花風景を有する自治体などに「認定書」を発行し、池坊のいけばな展で紹介し、地域ブランドづくりを支援する。
関連項目
[編集]- 池坊短期大学
- 日本いけばな芸術協会
- 京田辺市いけばな協会
- 小野妹子
- たちいりハルコ(漫画『いけいけ池坊!』執筆)
- 映画「花戦さ」
脚注
[編集]- ^ 『大衆人事録 近畿篇』(帝国秘密探偵社、1940年)p.8
- ^ 『新撰大人名辞典』平凡社, 1937年
- ^ 伯爵油小路隆成『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929
- ^ “花きの振興に関する法律が成立しました”. 農林水産省. 2015年6月19日閲覧。
- ^ “京都「嵯峨野の竹林と紅葉」など池坊花逍遥100選認定”. 産経ニュース産経新聞社. 2015年6月19日閲覧。