池沢義行
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県 |
生年月日 | 1939年5月14日(85歳) |
身長 体重 |
174 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1962年 |
初出場 | 1962年4月15日 |
最終出場 | 1966年9月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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池沢 義行(いけざわ よしゆき、1939年(昭和14年)5月14日 - )は、栃木県[1]出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
来歴・人物
[編集]大田原高校では、1956年(昭和31年)秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、宇都宮工に大敗。卒業後は神奈川大学に進学。神奈川五大学野球リーグでは、2年下のエース森川卓郎らを擁し、1960年(昭和35年)春季、1961年(昭和36年)春秋季リーグと3回の優勝を経験。全日本大学野球選手権大会にも2回出場するが、いずれも中京大に2回戦で敗れた[1]。4年春季リーグでは最優秀選手に選出され、首位打者を獲得[2]。
1962年に読売ジャイアンツへ入団し、契約金は1,600万円であった[3]。1年目から一軍に上がり、シーズン後半には坂崎一彦らと右翼手の定位置を争う。同年は35試合に先発を果たし、打率.250、2本塁打を記録する。2年目の1963年には、主に五番打者として57試合に先発出場。同年6月26日には長嶋茂雄の急な欠場もあって、広島を相手に1試合だけだが四番打者も経験[1]。8月11日の阪神タイガース戦では、リリーフで登板した村山実が審判(国友正一)のボール判定に抗議し、涙を浮かべながら退場する場面があったが(「どこ見てるんや! わしは一球一球、命かけて投げてるんや」と。)、この時に打席に立っていた打者が池沢である。ちなみに池沢は前日の試合でも、7回までノーヒットピッチングだった村山から8回にヒットを放っている。シーズンでは打率は.249ながら、チーム4位の42打点を挙げた。同年の西鉄ライオンズとの日本シリーズでは全7試合に右翼手、五番打者として先発。第6戦までわずか2安打と苦しむが、最終第7戦では田中勉から本塁打を放つなど3安打を放ち、チームの日本一に貢献した。
翌1964年も開幕直後から活躍するが、7月9日の阪神タイガース戦で太田紘一から右肘に死球を受ける。死球禍により打撃不振に陥り[1]、さらに手当を十分にしなかったことから、右肘に水が溜まるようになり、右投げの池沢は送球に支障を来すようになった[3]。死球の影響は大きく、7月半ば以降は先発出場からも外れた。
同年オフには、吉田勝豊・安藤元博・石原碩夫との交換トレードで坂崎一彦・山崎正之と共に東映フライヤーズへ移籍する。しかし、1965年は打率.158と不本意な成績に終わり、オフに戦力外通告を受けた。同年10月には東急病院で前年に死球を受けた右肘を手術する。病室には大洋ホエールズのスカウトも現れたが、包帯だらけの右腕を見て黙って帰って行ったという。さらに、韓国に詳しいチームメイトからソウル南部に灸の名人がいるとの話を聞いて、渡韓して治療を受けた[4]。
手術に伴って右手の握力は25㎏まで落ちたが、同年12月中旬より仲の良かった城之内邦雄に誘われて伊豆山でトレーニングを行う。そこで池沢は入団テストを通じた巨人への復帰を考え、監督の川上哲治に相談して、1966年2月から宮崎の二軍キャンプに自費で参加、2月下旬には復帰が決まった。同年5月6日の対サンケイアトムズ戦で代打として登場し、村田元一からタイムリー二塁打を打つ。その後も主に代打として起用されるが、握力の低下により打球の勢いが失せ、打率.118とあまり活躍できないまま、同年オフに引退した[1][5]。
引退後すると、東京都新宿区に池沢建設を開くが、1967年に6,000万円の手形詐欺にあって会社は倒産[6]。のち、埼玉県志木市でガソリンの輸送・販売を行う大豊産業の社長を務めた[7]。
逸話
[編集]遠征の際は長嶋茂雄と相部屋で、毎晩のように二人で素振りをしていたが、スイングによる筋肉の動きがよくわかるように、上半身は裸、下半身はパンツ一つで行っていた。なお、池沢の長男の名付け親は長嶋であった[7]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1962 | 巨人 | 76 | 158 | 148 | 7 | 37 | 4 | 0 | 2 | 47 | 15 | 1 | 2 | 2 | 0 | 7 | 0 | 1 | 30 | 5 | .250 | .288 | .318 | .606 |
1963 | 113 | 225 | 197 | 18 | 49 | 7 | 0 | 8 | 80 | 42 | 0 | 1 | 2 | 8 | 18 | 3 | 0 | 31 | 4 | .249 | .312 | .406 | .718 | |
1964 | 77 | 138 | 126 | 8 | 27 | 4 | 0 | 3 | 40 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 2 | 1 | 11 | 5 | .214 | .283 | .317 | .600 | |
1965 | 東映 | 61 | 63 | 57 | 1 | 9 | 2 | 0 | 0 | 11 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 6 | 2 | .158 | .226 | .193 | .419 |
1966 | 巨人 | 43 | 43 | 34 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 | 1 | 6 | 1 | .118 | .302 | .147 | .449 |
通算:5年 | 370 | 627 | 562 | 34 | 126 | 18 | 0 | 13 | 183 | 76 | 1 | 3 | 4 | 9 | 49 | 5 | 3 | 84 | 17 | .224 | .290 | .326 | .616 |
記録
[編集]- 初出場:1962年4月15日、対阪神タイガース5回戦(阪神甲子園球場)、9回表に城之内邦雄の代打として出場、村山実の前に凡退
- 初先発出場:1962年5月6日、対中日ドラゴンズ4回戦(後楽園球場)、2番・右翼手で先発出場、2打数2安打
- 初本塁打:1962年8月15日、対中日ドラゴンズ22回戦(後楽園球場)、7回裏に門岡信行から2ラン
背番号
[編集]- 6 (1962年 - 1964年)
- 8 (1965年)
- 41 (1966年)
関連項目
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 池沢義行 - NPB.jp 日本野球機構