沖克己
表示
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 香川県坂出市 |
生年月日 | 1918年8月9日 |
没年月日 | 1993年6月15日(74歳没) |
身長 体重 |
168 cm 60 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1937年 |
初出場 | 1937年 |
最終出場 | 1937年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
沖 克已(おき かつみ、1918年8月9日 - 1993年6月15日[1])は、香川県坂出市出身のプロ野球選手(捕手)・プロ野球審判員。
来歴・人物
[編集]香川県立坂出商業学校を卒業後、社会人の朝鮮竜山鉄道局でプレー。1937年に阪急軍に入団するが、その年限りで退団した[1]。
太平洋戦争ではレイテ島の戦いに参加。捕虜収容所で、アメリカ軍の通訳にバッキー・ハリスがいるのに気づいて声をかけると、捕虜の雰囲気が一挙に好転、ハリスも再会を大変喜んだという逸話がある[2][3]。
阪急軍退団後はプロ野球界との関わりを絶っていたが、1955年にパシフィック・リーグの東京審判部に入部し、プロ野球審判として再出発[1]。以降、1988年に引退するまで一筋の道を往く[1]。(1979年~1988年引退まで東京審判部専任指導員)審判としては大杉勝男がカール・ボレスと殴り合いを演じたのに双方を退場にせず記者から「なぜ退場にしなかったんだ!?」と問われると「大杉のパンチが早すぎてわからなかった。」という珍言を残したことで知られる。
日本シリーズ出場経験もあり、1971年の日本シリーズ第3戦(王貞治が山田久志から逆転サヨナラ3ランホームランを放った試合)では球審を務めていた。
審判袖番号は5(1977年初採用から1978年まで)。1993年6月15日に急性肺炎のため死去[1][4]。74歳没。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1937秋 | 阪急 | 14 | 15 | 14 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 3 | -- | .143 | .200 | .143 | .343 |
通算:1年 | 14 | 15 | 14 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 3 | -- | .143 | .200 | .143 | .343 |
背番号
[編集]- 27(1937年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小川勝『プロ野球助っ人三国志』毎日新聞社、1994年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 沖克已 - NPB.jp 日本野球機構