河原田巌
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河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2月28日[1] - 1951年(昭和26年)2月28日[2])は、大正から昭和期の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]茨城県[2]東茨城郡吉田村吉沢[1](現水戸市堀町 [1])で、河原田太三郎の三男として生まれる[1]。東京世田谷自動車学校を卒業した[1]。
福島自動車学校教授を経て[2]、東洋自動車学校を設立して校長兼教員となる[1][2]。1940年(昭和15年)自動車学校を廃校し貨物自動車運送業を営む[1]。1944年(昭和19年)茨城県北部貨物自動車運送、茨城県南部自動車運送の各取締役社長に就任[1]。1945年(昭和20年)平潟町定置網漁業の網元となる[1]。1946年(昭和21年)茨城水産工業取締役社長に就任[1][2]。その他、茨城県自動車貨物運送業組合理事、東亜製綿工業社長なども務めた[2]。
政界では、1937年(昭和12年)水戸市会議員に選出され1939年(昭和14年)まで在任[1][2]。同年9月、茨城県会議員に当選し、1946年(昭和21年)まで2期在任した[1][2]。
1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙に茨城県第1区から立候補したが落選[3]。1946年(昭和21年)4月の第22回総選挙に茨城県全県区から日本自由党公認で出馬して当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任した[2]。その後、1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に茨城県第1区から日本自由党公認で立候補したが落選した[5]