河瀬真
河瀬 真(かわせ まこと、1883年(明治16年)9月21日[1] - 1953年(昭和28年)1月24日[1][2])は、明治末から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍少将。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]東京府出身[1]。官僚・河瀬真孝の三男として生まれる[3][4]。1906年(明治39年)3月、海軍機関学校(14期)を卒業し、同年12月、海軍機関少尉任官[1]。
海軍水雷学校学生、海軍工機学校普通科学生、海軍大学校機関学生として研鑽を積んだ[1]。高千穂分隊長、安芸分隊長、機関学校教官兼監事、鞍馬分隊長、千歳分隊長、第一艦隊司令部附、兼連合艦隊司令部附などを務め、1917年(大正6年)12月、海軍機関少佐に昇進[1]。父の死去に伴い1919年(大正8年)11月10日、子爵を襲爵[3][5]。同年12月、横須賀鎮守府附となり私費で欧米各国に留学し、1922年(大正11年)11月に帰国した[1]。
1922年11月20日、海軍教育本部員(三部)に就任し、以後、機関学校教官兼監事、海軍燃料廠研究部長を歴任し、1925年(大正14年)12月、海軍機関大佐、1931年(昭和6年)12月1日、海軍少将と昇進し、軍令部出仕を経て、1933年(昭和8年)12月11日待命、同月15日予備役編入となった[1][6][7]。
1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[8][9]、研究会に所属して活動[2][2]。商工省参与、商工省委員、内閣委員などを務めた[2]。1940年に石油液化の先駆者として朝日賞を受賞[10]。1946年(昭和21年)4月17日に貴族院議員を辞職した[2][11][12]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[13]。
栄典
[編集]- 位階
- 1903年(明治36年)9月30日 - 従五位[14][15]
- 1913年(大正2年)10月10日 - 正五位[14]
- 1922年(大正11年)10月30日 - 従四位[14]
- 1929年(昭和4年)11月15日 - 正四位[14]
- 1934年(昭和9年)1月12日 - 従三位[14]
- 勲章等
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[14]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[14]
- 1917年(大正6年)9月25日 - 勲六等瑞宝章[14]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲四等旭日小綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章・戦捷記章[14]
- 1927年(昭和2年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[14]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 『日本海軍史』第9巻、827頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』41頁。
- ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成』上巻、462頁。
- ^ 『人事興信録』第13版 上、カ197頁。
- ^ 『官報』第2181号、大正8年11月11日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』271頁。
- ^ 『日本海軍将官辞典』127頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、47頁。
- ^ 『官報』第3758号、昭和14年7月17日。
- ^ 東京朝日新聞 昭和15年1月10日
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、55頁。
- ^ 『官報』第5796号、昭和21年5月14日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」28頁。
- ^ a b c d e f g h i j 「海軍少将子爵河瀬真外五名叙勲並勲章加授ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113319300
- ^ 『官報』第6076号「叙任及辞令」1903年10月1日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録』第13版 上、1941年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
日本の爵位 | ||
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先代 河瀬真孝 |
子爵 河瀬(真孝)家第2代 1919年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |