泉春子
いずみ はるこ 泉 春子 | |
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本名 |
吉村 春子 (よしむら はるこ、出生名) 山口 春子 (やまぐち はるこ、結婚後) 徳田 春子 (とくだ はるこ、再婚後) |
生年月日 | 1905年4月20日 |
没年月日 | 1998年 |
出生地 | 日本 長崎県佐世保市下京町 |
身長 | 162.9cm |
職業 | 女優 |
ジャンル | 演劇、劇映画(現代劇・時代劇、サイレント映画・トーキー)、テレビ映画 |
活動期間 | 1920年 - 1983年 |
配偶者 |
中根龍太郎 -死別 徳田(下の名前不明) -死別 |
泉 春子(いずみ はるこ、1905年4月20日 - 1998年?[1])は、日本の女優である。本名は、出生名が吉村 春子(よしむら はるこ)、俳優の中根龍太郎と結婚して山口 春子(やまぐち はるこ)、死別後に再婚して徳田 春子(とくだ はるこ)となった[1][2]。デビュー作での芸名は沢村春子であったが、次の作品でこの芸名に改名した[1]。身長は4尺3寸(約162.9センチメートル)、体重は12貫(約45.0キログラム)[2]。
人物・来歴
[編集]1905年(明治38年)4月20日、長崎県佐世保市下京町に「吉村春子」として生まれる[1][2]。
1918年(大正7年)、旧制白南風小学校(現在の佐世保市立白南風小学校)を卒業、満15歳になる1920年(大正9年)には「娘歌舞伎」に入門する[1][2]。芝居を見物した京都の映画プロデューサー・牧野省三の勧めで、1924年(大正13年)、マキノ映画製作所に入社した[1][2]。デビュー作は、沼田紅緑監督の『命の掛橋』で、「沢村春子」を名乗ったが、松竹キネマ出身の女優に同姓同名がおり、同年の次回作で「泉春子」と改名、終生の芸名とした[1]。1926年(大正15年)、人見吉之助監督の『真葛ヶ原女腹切』で初めて映画に主演した[1]。同年、阪東妻三郎が主宰する阪東妻三郎プロダクションに移籍した[1][2]。1927年(昭和2年)、俳優の中根龍太郎と結婚した[1]。
1928年(昭和3年)、夫の中根がマキノ・プロダクションを独立して、中根龍太郎喜劇プロダクションを設立したが、わずか3作で解散となり、夫や同プロダクションのメンバーであった有馬茂明(のちの有馬是馬)、結城三重吉(のちの小崎政房)、千葉三郎(のちの大乗寺八郎)とともに、佐賀県唐津町(現在の唐津市)での浪花節芝居に同行した[3]。同年、中根らは松竹下加茂撮影所に入社することになり、春子も入社した[3]。翌1929年(昭和4年)、古野英治監督の『無言詣』では、夫の中根と共演している。同年、中根はマキノ・プロダクションに復帰、春子は東亜キネマの京都撮影所に入社した。1931年(昭和6年)には同社は解体し、春子は退社している。
1933年(昭和8年)、東京のP.C.L.映画製作所(のちの東宝映画の前身の一社、現在の東宝の前身の一社)でトーキーに出演した夫とともに東京に移住、春子は大都映画に入社した。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)8月30日、夫の中根龍太郎と死別する。
戦後、1954年(昭和29年)、佐々木康監督の『変化大名』前・後篇で映画界に復帰、東映京都撮影所作品に出演した。1983年(昭和58年)ごろまでテレビドラマに出演していたが、それ以降の消息は知られていない。戦後に再婚したが、死別し、子どもは四男一女を産み育てた[1]。
おもなフィルモグラフィ
[編集]映画
[編集]- 『命の掛橋』 : 監督沼田紅緑、1924年
- 『栗飯の焚ける間』 : 監督後藤秋声、1924年
- 『真葛ヶ原女腹切』 : 監督人見吉之助、1926年
- 『無言詣』 : 監督古野英治、1929年
- 『変化大名』前・後篇 : 監督佐々木康、1954年
- 『恋や恋なすな恋』 : 監督内田吐夢、1962年
テレビドラマ
[編集]- 素浪人 花山大吉 第56話「昔の美人が揃っていた」(1970年)
- 大岡越前
- 水戸黄門(TBS / C.A.L)
- 第2部 第3話「暁の乱斗・福島」(1970年)
- 十手無用 九丁堀事件帖 第2話「わらを掴んだ女」 (1975年)
- 服部半蔵 影の軍団第20話「私は殺される!」(1980年)
註
[編集]参考文献
[編集]- 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日発行
- 『日本映画俳優全集・女優編』、『キネマ旬報』第801号、キネマ旬報社、1980年12月31日発行
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年発行
外部リンク
[編集]- Haruko Izumi - IMDb
- 泉春子 - 日本映画データベース
- 泉春子 - KINENOTE
- 泉春子 - allcinema