法華寺 (北海道松前町)
法華寺 | |
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所在地 | 北海道松前郡松前町豊岡258 |
山号 | 妙光山 |
宗旨 | 日蓮宗 |
寺格 |
宗門史跡 別格中本寺(緋金襴寺跡) |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 1296年(永仁4年)[注 1] |
開山 | 日持 |
中興年 | 1528年(享禄元年)5月[注 2] |
中興 | 久遠院日尋[注 3] |
正式名 | 妙光山法華寺 |
別称 |
北海唱導発軫霊窟[注 4] 奥羽二州触頭 松前奉行所永代祈願所 |
法人番号 | 4440005000732 |
法華寺(ほっけじ)は、北海道松前郡松前町にある日蓮宗の寺院である。
歴史
[編集]山号は妙光山。寺院は莚師法縁、住職は親師法縁に属する。[注 5]
1296年(永仁4年)に、日蓮の直弟子・六老僧の一人である日持によって上ノ国小堀村(現在の上ノ国町勝山)に創建され「玉持山法華堂」と呼ばれた。時が下り1514年(永正11年)に勝山館主の蠣崎光廣が松前の徳山館に本拠を遷した事に伴って松前に移転した。また同年には旧志苔館主であった小林良治も松前に移住したとされているが、次代当主の小林三左衛門によって先祖伝来の祖師像[注 6]が法華寺に奉納された。1528年(享禄元年)5月には、京都本満寺の塔頭・玉持院2世の久遠院日尋が入寺し「法華寺」と号したとされる。このような経緯から、江戸時代には本満寺直末の別格中本寺として奥羽両州の同門末寺院を管轄し「奥羽二州触頭」と称され、同時代末期には遠国奉行の一つとして設置された松前奉行によって松前奉行所永代祈願所に指定された。このような経緯から徳川将軍家や村雲御所瑞龍寺門跡と深い縁を持ち、三つ葉葵紋が寺紋として定められた。
1872年(明治5年)10月25日に失火により焼失したが、1893年(明治26年)までに第28世・正運院日軌(貫名日軌)によって再建された。その際、日軌が師である金子日尹から譲られた祖師像が現在祖師堂に安置されており、1992年(平成4年)3月31日に北海道の有形文化財に指定されている。[1] また1895年(明治28年)には小松宮彰仁親王より「北海唱導発軫霊窟」の称号と「願満殿」の扁額が下賜された。
境内には、旧志苔館主・小林家や吉田家の霊廟、松前奉行・小笠原長幸や徳川軍埋葬塚などの墓域がある。またかつては、法華寺の一部をユースホステルとして開放した時期もあり「法華寺ホステル」や「法華寺ユースホステル」と呼ばれていた[2]。
旧本末
[編集]日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山・旧末寺と呼びならわしている。
- 本山 廣布山本滿寺(京都府京都市上京区)
交通
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 法華寺及び江差法華寺は、日蓮の高弟である六老僧の一人・蓮華阿闍梨日持が檜山郡上ノ国小堀村勝山に建立した法華堂を淵源とする。江差法華寺の寺伝によれば、1291年(正応元年)となっている。
- ^ 江差法華寺の寺伝によれば、1521年(大永元年)となっている。
- ^ 玉持院とも。
- ^ 1895年(明治28年)に小松宮彰仁親王によって命名された。
- ^ 法類・法縁とは、同じ宗旨・宗派に属し密接な関係を持つ僧侶並びに寺院のこと。日持門流は、日持自ら開いた妙法山永精寺を淵源とし親師法縁に属する本山貞松山蓮永寺と、日持を崇敬開山に仰ぎ莚師法縁の縁頭寺である本山廣布山本滿寺の2大法脈となっている。上ノ国法華堂を淵源に持つ日持門流は、寺院と住職の法縁を敢えて分かつ事によって両本山の法脈を継承する形式を保っており、これは他の日持門流寺院には見られない特徴となっている。
- ^ 1443年(嘉吉3年)に志苔館主・小林良景が所領の石崎(現在の函館市石崎町)で得たものと伝わる。石崎には日持が1295年(永仁3年)に開いた日持山妙應寺がある事から、妙應寺から小林家に移された可能性もある。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 宗祖第七百遠忌記念出版『日蓮宗寺院大鑑』/日蓮宗寺院大鑑編集委員会/大本山池上本門寺/昭和56年(1981年)
- 『日蓮宗事典』/日蓮宗事典刊行委員会/日蓮宗宗務院/昭和56年(1981年)