泗沘
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泗沘(しび、朝鮮語: 사비、サビ)は、古代朝鮮の百済の古都であり、現在の忠清南道扶餘郡にあたる。
第26代の聖王の16年(538年)に、それまでの国都熊津(忠清南道公州市)から泗沘に遷都し、百済滅亡の660年までの国都であり続けた。『三国史記』百済本紀には分注で一名として所夫里(そふり)とも記される。一方、同書の新羅本紀では本文中に所夫里・泗沘の名が見られ、同書の地理志では本文では所夫里、分注で泗沘と記される。この所夫里の表記については、「都」の意である서울(ソウル)につながる語であるとも考えられている[1]。
新羅による半島統一の後、新羅の景徳王(在位:742年 - 765年)の時代に扶餘郡と改称された。
参考文献
[編集]- 『三国史記』百済本紀・聖王16年春条、新羅本紀・武烈王7年7月12日条、9月3日条、地理志・熊州扶餘郡条、地理志・百済条
- 『三国遺事』王暦・聖王戊午年条
脚注
[編集]- ^ 実際、ハングルによる表記法が確立された以降(中期朝鮮語)の文献では「都(京)」を意味する語として、「셔ᄫᅳᆯ」という語が見られるが、その音声は*/sjəβɯl/と推定されており、*/β/は[b]の弱化(衰退)・脱落の過程にあると考えられ(唇音退化)、やがて*/w/(厳密には[β̞]かもしれない)となり、*/sjəwɯl/となったところで、その*/w/([β̞])が*/ɯ/と融合して*/sjəul/となり(直前の唇音の影響による円唇化)、更にその*/u/の円唇性により*/sjəul/の*/j/が脱落(非口蓋化)し、その母音*/ə/も、/ɔ/([ʌ])への変化を経て、現代語の서울(/sɔul/[sʌul])となったと推定される。参考:石橋道秀 訳『中世韓国語文法 —15世紀語を主として—』松原孝俊監修、花書院、福岡市〈比較社会文化叢書II〉、2006年(原著1981年)、9-12頁。ISBN 4938910861。「【15】また、‘ㅸ’音の変化状態から、副詞のみを除きほぼ次の公式が成り立つ。〔中略〕(5) ᄫᅳ>우: 例: 셔ᄫᅳᆯ(京)>셔울 더ᄫᅳᆫ(暑)>더운 입시ᄫᅳᆯ(唇)>입시울」
また、参考として所夫里の当て字が行われた頃に近いと思われる漢字の発音(中古音)を示しておく。所*[ṣïo]・夫*[(pɪou) pɪu]・里*[lɪei]。参照:藤堂明保・加納喜光 編『学研 新漢和大辞典』(普及版)学習研究社、2005年。ISBN 9784053000828。
外部リンク
[編集]- 扶余官北里百済遺蹟(泗沘城址) 韓国旅行コネスト