波多野義景
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 通称:五郎 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 相模波多野氏 |
父母 | 父:波多野義通[1]または波多野遠義[2] |
兄弟 | 義常、義景、忠綱、大槻高義 |
子 | 佐藤信景、盛通、義忠 |
波多野 義景(はたの よしかげ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人。相模波多野氏7代。
略歴
[編集]相模波多野氏は波多野氏の一族で相模国波多野荘[3]を所領とする。
波多野義常は義景の兄[1]とも、従兄弟ともされる[2]人物で、源頼朝の旗揚げの際、合力を呼びかけられたが、拒絶して敵対したのち討手を差し向けられて自害した。義景は頼朝の宥恕を得、波多野氏の家督相続と、本領である波多野荘の保有を許可された。元暦元年(1184年)5月、子・盛通が志田義広討伐軍に加わっている。
文治4年(1188年)8月23日、波多野本庄北方の所領の所有権を巡って岡崎義実と抗争し、控訴となる。義景は、北方の土地は保延3年(1137年)正月20日に祖父・遠義が二男・義通に譲与し、嘉応元年(1169年)6月17日に義通から義景に譲与されたものであり、以来他に譲渡されたことはなく、本件に関しては岡崎義実の横領であると主張した。頼朝の裁定の結果、義景の勝訴となった。文治5年(1189年)に起こった奥州合戦では、他の御家人らと共に従軍した。出陣に先んじて、戦場で討死する覚悟を宣言し、所領を幼い子に譲っており、義景の覚悟は頼朝を大いに感心させた。
建久6年(1195年)、頼朝が東大寺供養の儀式を行った際は供奉を務めている。元久3年/建永元年(1206年)、源実朝が殿中で相撲を興行した際、奉行人を担当しており、これが『吾妻鏡』における義景の最後の登場となっている。