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津和野局

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

津和野局(つわの の つぼね、生年不詳 - 元亀2年10月6日1571年10月24日))は、戦国時代後期の人物。安芸国戦国大名毛利氏の当主である毛利隆元の娘で、毛利輝元の姉妹にあたり、石見国の有力国人毛利氏に従った吉見広頼の正室となった[1][2]

生涯

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安芸国戦国大名毛利氏の当主である毛利隆元の娘として生まれる[1][3]。母は内藤興盛の娘で大内義隆の養女として隆元に嫁いだ尾崎局[1][3]。生年は不詳だが、光成準治は津和野局を輝元の姉と推測しており、その推測に従うと天文22年(1553年)以前の生まれとなる[3]

永禄5年(1562年)以前、石見国の有力国人である吉見広頼と婚姻した[2][3]。津和野局は毛利氏吉見氏の融和に尽力し、広頼との間には天正9年(1581年)に伊予国の大名である河野通直に嫁ぎ、後に毛利元康(末次元康)に再嫁した長女の矢野局、天正6年(1578年5月3日に早世する次女の正岫寿覚が生まれているが、男子は生まれなかった[2][4]

元亀2年(1571年10月6日に石見国津和野で死去し[1][5]、同地の陽明寺に葬られる[1]。法名は「妙悟寺殿高覚妙悟大姉」[1][5]。母の尾崎局は遠国に嫁いだ娘の早すぎる死をとても嘆き悲しんだという[注釈 1][4]

慶長9年(1604年)、毛利輝元は周防国山口に存在した臨済宗建仁寺派の寺院である真如寺萩城内に移して津和野局の菩提寺とし、津和野局の法名から寺名を真如山妙悟寺と改めた[2][6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 津和野局が死去する4ヶ月前の元亀2年(1571年)6月14日には津和野局の祖父で尾崎局の舅にあたる毛利元就も死去している。

出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 萩市仏教会萩市仏教文化研究会『城下町萩の寺と人物 萩市寺院名鑑・新版』1999年4月。 
  • 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。ISBN 462307689X 

関連項目

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