織田信兼
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(津田信兼から転送)
時代 | 安土桃山時代 |
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死没 | 天正11年(1583年) |
改名 | 信包[1](のぶかね) |
別名 | 新八郎[2](通称)、新八郎信兼 |
主君 | 織田信孝 |
氏族 | 織田氏(信勝流)( 津田氏) |
父母 | 父:織田信勝(信行) |
兄弟 | 信澄、信糺、信兼 |
織田 信兼(おだ のぶかね)は、安土桃山時代の武将。織田信孝の家臣。通称は新八郎。
略歴
[編集]織田信勝(信行)の子[3]。『系図纂要』に見られ、史料はほぼない。
同系図によれば津田信澄の弟は一人で[3]、記述のない信糺との序列は不明なため、二男か三男。兄と同じく津田姓を名乗ったなら津田信兼[4]であろう[6]。
天正10年(1582年)の本能寺の変直後、神戸信孝と丹羽長秀は大坂で兄・信澄を謀殺しているが、新八郎信兼(信包)は織田家の内紛では信孝に従う。
天正11年(1583年)、峰信濃守・平田壹岐守と瑞龍寺山城(瑞龍寺山砦)を守るが、賤ヶ岳の戦いでの柴田勝家の敗戦を知って岐阜城へ撤退[1]。城からの退去に従って野間に赴き、信孝が自害したときには殉死した[2]50名の1人という[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣、1999年、120頁。ISBN 9784639016328。
- 熊田葦城「国立国会図書館デジタルコレクション 野間」『日本史蹟大系 第11巻』平凡社、1936年 。