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津軽信寧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
津軽信寧
津軽信寧像(弘前藩歴代藩主絵像 正伝寺蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文4年2月27日1739年4月5日
死没 天明4年閏1月2日1784年2月22日
戒名 戒香院殿梅渓常薫大居士
墓所 東京都台東区上野の津梁院
官位 従五位下越中守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
陸奥弘前藩
氏族 津軽氏
父母 父:津軽信著
兄弟 信寧仙石好古
正室:松平明矩娘・綾姫
側室:青木助右衛門妹・歌喜
信明阿部正倫継室、堀親忠正室、
堀親忠継室、那須資明室ら
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津軽 信寧(つがる のぶやす)は、江戸時代中期の大名陸奥国弘前藩7代藩主。官位従五位下・越中守。

生涯

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元文4年(1739年)2月27日、6代藩主の津軽信著の長男として誕生した。延享元年(1744年)8月2日、26歳で早世した信著の跡を6歳で相続した。また、一族の津軽著教[注釈 1]に3000俵を分け与えた。だが翌年に著教が死亡したため、3000俵は本藩へ戻された。宝暦3年(1753年)2月18日、9代将軍の徳川家重御目見した。同年12月18日、従五位下土佐守に叙任された。

信寧の治世中、弘前藩は飢饉など天災が相次いで領地は荒廃し、借金は35万両にも及んだ。しかも藩重臣の3名が商人と結託して、藩内の米を買い占めて江戸へ売却して暴利を貪るなど、藩政に不正も起こっていた。明和3年(1766年)7月8日、地震のために弘前城が壊れたため、修復費用として幕府から4000両を借り入れた。天明元年(1781年)から起こった天明の大飢饉は藩にとどめを刺すこととなった。天明3年12月25日(1784年)、幕府から飢饉対策のために1万両を借り入れた。これら借財の返済のため、信寧は財政改革に乗り出そうとしたが、その矢先の天明4年(1784年)に急死し、跡を長男の信明が継いだ。

系譜

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偏諱を受けた人物

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  • 津軽 - 黒石津軽家第6代当主、信寧の嫡男・信明の死後にその跡を継いで弘前藩の9代藩主となる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 5代藩主で曾祖父の信寿の子。信寧相続時に70歳を超えていた信寿は先代に引き続き、幼年の藩主の補佐を行っていたと推測されている。

出典

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関連項目

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