浅井長時
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(浅井田宮丸から転送)
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永禄12年(1569年) |
死没 | 天正12年3月6日(1584年4月16日) |
改名 | 田宮丸(幼名)、長時 |
別名 | 政向[1]、長安[1] |
戒名 | 直心院殿浄岸居士 |
主君 | 織田信長→信忠→信雄 |
氏族 | 尾張浅井氏 |
父母 | 浅井新八郎 |
兄弟 | 長時、女(市橋長勝正室)、政重、ほか |
浅井 長時(あざい ながとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国苅安賀城主。
経歴
[編集]浅井新八郎(諱は政貞等)の子[2]。『寛政重修諸家譜』では某とされ、母の記名はなく、幼名は田宮丸、諱は長時に作るとある[3]。
天正10年(1582年)の本能寺の変以前に父の遺領[4]を継ぎ、尾張衆として織田信忠の軍団に組み込まれる[2]。
天正12年(1584年)正月、岡田重孝、津川義冬、滝川雄利、そして長時の信雄の家臣団で響力を持つ四家老が、羽柴秀吉に大坂に招かれて、密談の後に起請文を書かされたが、雄利のみ拒否して帰った。雄利がこれを信雄に報告したので、信雄は彼以外の三家老は秀吉に内通したと怒り、3月6日、三家老は長島城に呼び出され、岡田は土方雄久が、津川は飯田正家が、長時は森久三郎[5]がそれぞれ謀殺した。その後、苅安賀城は森に与えられた[6][7]。
『重修譜』に長時の没年16とあり[3]、谷口克広はそれでほぼ正しいだろうとする[2]。
登場作品
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、5頁。ISBN 9784797105551。
- ^ a b c d 谷口 1995, p. 19.
- ^ a b 堀田 1923, p. 988.
- ^ 父の生没年は不詳だが、『尾張群書系図部集』では天正9年(1581年)5月24日死去とされる。
- ^ 森勘解由、毛利伊勢守ともいう。同じく尾張衆で毛利高政の養父にあたる。高政の娘は新八郎の妻。
- ^ 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 甲篇』 第4、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、281-283, 304頁 。
- ^ 柴田顕正 編『国立国会図書館デジタルコレクション 岡崎市史. 別巻下巻』岡崎市、1935年、54-55頁 。
参考文献
[編集]- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。ISBN 4642027432。
- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書、1923年、988頁 。