浅田良逸
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浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月18日[1] - 1958年(昭和33年)4月8日[2])は、大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。旧姓・笹森。
経歴
[編集]青森県弘前で笹森要蔵の五男として生まれ、陸軍大将・男爵浅田信興の養子となり[3]、1927年(昭和2年)6月1日に男爵を襲爵した[4][5]。
1899年(明治32年)11月21日陸軍士官学校(11期)を卒業後、1900年(明治33年)6月22日に歩兵少尉に任官[4][6]。日露戦争に従軍し、陸軍大学校(22期、1910年11月卒業[7])に学び、1929年(昭和4年)8月1日に陸軍中将に至った[4][8]。その間、近衛歩兵第2旅団副官、近衛歩兵第3連隊中隊長、参謀本部部員、陸軍歩兵学校研究部部員、歩兵第57連隊大隊長、教育総監部部員、陸軍大学校教官、歩兵第7連隊長、第11師団参謀長、歩兵第33旅団長、近衛師団司令部附、東京湾要塞司令官などを歴任した[2][4]。1931年(昭和6年)8月29日、予備役に編入[2][6]。
1932年(昭和7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[9][10]、公正会に属して活動し1946年(昭和21年)4月7日まで在職した[2][11]。
なお、戦時中には、弟笹森順造が塾長をつとめた 東奥義塾の塾長に赴任している[3]。
栄典
[編集]- 位階
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 大衆人事録 1930.
- ^ a b c d 議会制度七十年史 1960.
- ^ a b 東奥日報社 2002, 10頁.
- ^ a b c d 人事興信録 第11版 1937.
- ^ 『官報』第126号、昭和2年6月2日。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156-157頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、557-558頁。
- ^ 『日本陸軍将官辞典』24頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、41頁。
- ^ 『官報』第1664号、昭和7年7月18日。
- ^ 『官報』第5791号、昭和21年5月8日。
- ^ 『官報』第1431号「叙任及辞令」1931年10月5日。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、23頁。
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版(上)』人事興信所、1937年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1960年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 東奥日報社 編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。ISBN 4885610656。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
日本の爵位 | ||
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先代 浅田信興 |
男爵 浅田(信興)家第2代 1927年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |