浜田十之助
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浜田 十之助 | |
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生誕 |
1890年10月29日 日本 鹿児島県 |
死没 |
1950年7月25日(59歳没) ソビエト連邦 ハバロフスク地方 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1914年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
浜田 十之助(はまだ じゅうのすけ、1890年(明治23年)10月29日[1] - 1950年(昭和25年)7月25日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[3]。
経歴
[編集]1890年(明治23年)に鹿児島県で生まれた[1]。陸軍士官学校第26期卒業[1]。1940年(昭和15年)3月11日に歩兵第214連隊長に就任し[3]、8月1日に陸軍歩兵大佐に進級した[3]。1942年(昭和17年)8月に第8国境守備隊第2地区隊長に転じ[3]、1944年(昭和19年)10月に第6国境守備隊長に就任した[3]。
1945年(昭和20年)6月10日に陸軍少将に進級し[3]、第6国境守備隊を基幹として、第123師団・第5国境守備隊・第149師団の差出、残置人員により7月30日に編制された独立混成第135旅団長(関東軍・第4軍)[1]に就任した[4]。ソ連対日参戦の際には旅団主力は璦琿陣地を守備しており[5][6]、8月16日より支陣地の奪回戦を繰り広げたが[6]、ソ連軍に多大な損害を与え健闘した[6]。8月15日の玉音放送は聴取していたが[6]、第123師団との無線は途絶しており[6]、停戦命令があるまでの戦闘継続を決心した[6]。8月20日には区処を受けていた第123師団よりソ連機に乗り[6]、司令部参謀附の中村宏少尉が飛来し[6]、停戦命令及び師団長の親書を手交された[6]。浜田は大隊長以上と協議し[7]、停戦を決心して璦琿陣地の旅団主力は陡溝子で武装解除した[7]。戦後はソ連に抑留され、ハバロフスクで死去[2]。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 中山隆志 著『ソ連軍進攻と日本軍』国書刊行会、1990年。ISBN 4336031673。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。