浜田広綱
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 大永3年(1523年) |
死没 | 文禄元年2月15日(1592年3月28日) |
官位 | 安房守 |
主君 | 葛西氏 |
氏族 | 浜田氏 |
父母 | 浜田宗綱 |
子 | 江刺重俊、江刺信雄、信綱 |
浜田 広綱(はまだ ひろつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。葛西氏の家臣。陸奥国東館城主。
略歴
[編集]大永3年(1523年)、誕生。気仙地方の旗頭で陸前高田の東館城主。
天正14年(1586年)の歌津合戦で本吉重継を撃破し併合した。天正15年(1587年)、気仙沼の宿敵赤岩城主・熊谷直義と決戦に挑むが、主君の葛西氏が熊谷氏を支援し、熊谷勢の伏兵に遭うなどして戦線が膠着したため、一度は停戦。しかし、翌天正16年(1588年)3月には再び所領減の措置を不服とし、及川氏に奪われていた米ヶ崎城を奪回するが敗北(浜田兵乱)、所領を失った。
跡を三男・信綱が引き継いだが[1]、奥州仕置で改易され、葛西大崎一揆に加担。伊達政宗により謀殺されたため勢力を失い、広綱は隠遁した。