海部壮平
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海部 壮平[1](かいふ そうへい、1847年9月22日(弘化4年8月13日) - 1895年(明治28年)10月1日)は、幕末の尾張藩藩士、明治時代の養鶏家。名は「荘平」と表記する資料もある[2]。
経歴
[編集]尾張藩士の海部左近右衛門の子として生まれたが、明治時代になり1870年(明治3年)には世禄を奉還し、東春日井郡池之内(現小牧市)に移住した[2]。身分と職を失いよろずやを開業したが借金がかさみ、弟の海部正秀(1852年-1921年)から養鶏を勧められた[1]。試行錯誤の末、1882年(明治15年)頃には経営は順風満帆となっていたものの鶏コレラで全滅[1]。
1888年(明治21)年に同志で愛知種鶏場を設立[2]。弟の正秀らとともに地鶏と中国産のバフコーチンを掛け合わせ、名古屋コーチンを作出した[1][3](正式な品種名は「名古屋種」[1]で当初は改良「薄毛」と名付けられたが1919年に改名した[2])。