コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

海野三次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
うみの さんじろう

海野三次郎
生誕 (1866-05-01) 1866年5月1日
日本の旗 駿河国庵原郡平山村
(現在の静岡県静岡市葵区
死没 1939年7月??日(74歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 起業家、弓道家
著名な実績 台湾での建設業
テンプレートを表示

海野 三次郎(うみの さんじろう、1866年5月1日慶応2年3月17日[1]) - 1939年昭和14年)7月[2](p61))は、駿河国庵原郡出身の実業家

経歴

[編集]

1866年(慶応2)駿河国庵原郡平山村(現静岡市葵区平山)にて出生[1]。幼少時より日置流雪荷派として弓術を嗜む[2](p57)

1895年(明治28)、20歳時に軍人として台湾に出征[3](pp368-369)

1900年(明治33)30歳時に民間人として台湾に再渡航し[2](p57)、日系建設請負業の久米組に入社[2](p58)

1903年(明治36)1月独立し、海野組を創業[2](p58)[3](pp259)、同業者の組合で幹部となる。高雄劇場株式会社監察役や民間の消防組で副組長も務めた[2](p58)

1916年(大正5)、家業を婿養子の利作に譲り、消防組などの職位も退く[3](pp368-369)。隠居後は大日本弓術協会打狗支部の弓道師範として、全国弓術大会に台湾代表として出場するなど、競技普及に貢献した[2](p59)[3](pp368-369)

1918年には大相撲の打狗興行を成功させた[2](p59)

1939年(昭和14)7月、74歳で病死[3](pp368-369)。その後も海野組は飛躍を遂げ、当時の高雄で一、二を争う規模となっていた[2](p58)

栄典

[編集]
  • 1916年(大正5)1月20日 - 褒状(木杯一組)[2](p59)[4]
  • 1938年(昭和13)12月13日 - 台湾総督府褒状[2](pp60-61)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 内藤素生 (1922-10-10). 南國之人士. 台湾人物社. p. 338. http://mhdb.mh.sinica.edu.tw/mhpeople/bookimage.php?book=NZ&page=0338 
  2. ^ a b c d e f g h i j k (繁体字中国語)陳啟仁 (2018-08-01). “西子灣隧道及防空設施之歷史沿革初探”. 高雄文獻 (高雄市立歴史博物館) (8卷2期): pp.46-73. ISSN 2222-8306. http://www.kaohsiunghistoriography.tw/index.php?PA=history. 
  3. ^ a b c d e 片山清夫 (1940年). “躍進高雄の全貌”. 成文出版社. 2019年7月28日閲覧。
  4. ^ 台湾総督府報第936号”. 台湾総督府. p. 70 (1916年1月28日). 2019年7月28日閲覧。

関連項目

[編集]

西子湾隧道(台湾・高雄市にある海野組が建設した歩行者トンネル)