海野八郎
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海野 八郎(うみの はちろう、1907年(明治40年)8月[1] - 没年不明)は、日本の幼稚園経営者、地主・家主[2][3][4][5]、資産家[6]。
人物
[編集]大阪府西成郡中津村出身。海野梅三郎の長男[1][3][6]。1922年、家督を相続する[1][2][3]。大阪市立実業学校を卒業[2][3][7]。児童訓育を志し南海沿線助松に海辺幼稚園を経営する[3][7]。大阪市内及び浜寺、春木、岸和田その他同沿線の児童を収容、専ら訓育に当たる[7]。
海野八郎について『帝国信用録 第26版 昭和8年』には「職業・貸地家、店舗又は住所・東淀川、中津本3」とある[8]。趣味は油絵[1][6]、カメラ[3][7]。宗教は浄土真宗[2][3]。住所は大阪市東淀川区中津本通3丁目[1][4][5]、中津本町3丁目[7]。
家族・親族
[編集]- 海野家
- 祖父・八兵衛[9](1843年 - ?、大阪平民、資産家)[10] - 見野佐治兵衛の三男[10]。1867年に八兵衛の養子となり1869年に家督を相続する[10]。住所は中津町下三番[9]。
- 父・梅三郎[11][12][13](1864年 - ?、大阪平民、金融業[11]、貸金貸家業[13]、資産家[12][13]) - 海野八兵衛の四男[13]。住所は中津町下三番[11]。
- 母・巻[1][3](1880年 - ?、地主・家主[4][5]、大阪、田中正次郎の姉[13])
- 弟・三郎(1912年 - ?)[2][3]
- 妹[2][3]
- 妻・たき乃(1914年 - ?、兵庫、服部清太郎の妹)[2][3]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『人事興信録 第11版 上』ウ92頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第14版 上』ウ63頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第13版 上』ウ66頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第40版』大阪ウの部42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第35版』大阪ウの部44頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第8版』ウ62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第12版 上』ウ75頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月4日閲覧。
- ^ 『帝国信用録 第26版 昭和8年』大阪府(ウ)147頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年5月26日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第18版』大阪うの部225頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月4日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第4版』う45頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第26版』大阪うの部178頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第6版』う50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年4月1日閲覧。
- ^ a b c d e 『財界フースヒー』う12頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年12月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 交詢社編『日本紳士録 第18版』交詢社、1913年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 交詢社編『日本紳士録 第26版』交詢社、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 前村信松編『財界フースヒー』ジヤパンエコノミスト社、1923年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 交詢社編『日本紳士録 第35版』交詢社、1931年。
- 帝国興信所編『帝国信用録 第26版 昭和8年』帝国興信所、1933年。
- 交詢社編『日本紳士録 第40版』交詢社、1936年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937 - 1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。