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海野恒男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

海野 恒男(うんの つねお、1931年6月28日[1] - 2000年10月30日)は、日本経済官僚エコノミスト経済企画庁物価局長、国民生活局長、総合計画局長、経済企画審議官等を歴任した。

人物

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静岡県生まれ。1957年一橋大学経済学部経済学科卒業後、経済企画庁入庁。計画局計画第一課に配属され、大来佐武郎(計画局長)、大田亮一(計画第一課長)の部下として働く。後に当時の課員であった宮崎勇(経済企画庁長官)、新藤稔(国際証券顧問)らとともに「大田会」と称して、毎年忘年会を開くようになる[2]

スタンフォード大学留学を経て[3]、1970年から1971年まで第3次佐藤内閣佐藤一郎経済企画庁長官事務秘書官を務めた。その後、第3次佐藤内閣の事務秘書官仲間で「さんさ会」を結成し、会合を重ねる。メンバーの中では、大高時男(内閣情報調査室長)、井嶋一友(最高裁判所裁判官)と特に親しく、ともにゴルフに行くこともあった[4]。「さんさ会」のほかのメンバーには、吉原健二(厚生事務次官)、山田勝久 (防衛庁装備局長)、福島譲二(熊本県知事)、中村徹(運輸事務次官)、望月三郎(労働省労働基準局長)らがいる[5]

その後調整局調整課長として、経済見通しと経済運営の基本的態度(政府経済見通し)の原案作りと調整を担当[6]

1984年には、総理大臣中曽根康弘の指示で、国務大臣河本敏夫の下、急遽設置された特命事項担当室の室長に就任し、対外経済摩擦への対応、民間活力導入の具体策検討業務にあたった[7]

1989年に次官級の審議官である経済企画審議官を務めた後、退官。1990年には春の園遊会に招待された[8]

2000年10月30日、肝不全のため死去[1]

略歴(課長以後)

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脚注

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  1. ^ a b 『現代物故者事典2000~2002』(日外アソシエーツ、2003年)p.106
  2. ^ 日本経済新聞1990年6月12日
  3. ^ 『わが志は千里に在り: 評伝大来佐武郎』216頁 小野善邦著 日経BPマーケティング社
  4. ^ 日経金融新聞1998年2月10日
  5. ^ 日本経済新聞1996年6月3日
  6. ^ 日本経済新聞1981年12月20日
  7. ^ 日本経済新聞1984年11月22日
  8. ^ 朝日新聞1990年5月16日