深尾重照
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 元和5年(1619年)[1] |
死没 | 元禄2年閏1月2日(1689年2月21日) |
別名 | 通称:因幡 |
主君 | 山内忠豊→豊昌 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 深尾家 |
父母 | 父:深尾重昌、母:深尾重忠娘 |
兄弟 |
成直、重歳、重照、重康、繁康、 山内豊吉室、並川主税 |
妻 | 松下石見守娘 |
子 |
重次、山内重直 継承者:重方(孫) |
深尾 重照(ふかお しげてる)は、江戸時代前期の土佐藩の家老。深尾家当主・佐川領主3代。
生涯
[編集]元和5年(1619年)、高岡郡佐川土居付家老の深尾重昌の子として誕生した。
寛永11年(1634年)、3代将軍・徳川家光が上洛する際、幕府の証人となり、上京して二条城で家光に拝謁し、土佐藩2代藩主・山内忠義の世子・忠豊と共に江戸に下向する。慶安4年(1651年)、証人を交代して帰国する。寛文2年(1662年)3月、父の隠居により家督を相続する。
寛文3年(1663年)、奉行・野中兼山の失脚のきっかけとなった3箇条の訴書を、父・重昌、義兄弟・山内豊吉と連名で、側近孕石頼母、生駒木工を通じて藩主・山内忠豊に提出した。寛文9年(1669年)、藩主・豊昌の家督相続御礼言上の際に、4代将軍・徳川家綱に拝謁する。
元禄2年(1689年)閏正月2日没。享年71。嫡男の重次は先立って没していたため、孫の重方が家督を継承した。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『佐川町誌』(佐川町自治会、1919年)p.375では元和2年(1616年)4月29日生まれ。
出典
[編集]- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年
- 『佐川町史』佐川町史編纂委員会
|
|