深山亀三郎
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深山 亀三郎(みやま かめさぶろう、1889年11月19日 - 1929年8月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。
経歴
[編集]広島県安芸郡仁保村(現・広島市)出身[1]。陸士24期卒業。同期は、陸軍中将土橋勇逸、陸軍中将沼田多稼蔵。後輩に武藤章がいる。
1927年(昭和2年)11月に鈴木貞一らと共に木曜会を結成。1929年5月、二葉会と木曜会が合流した一夕会にも所属[2]。同年8月14日、各務原飛行連隊の演習視察のため、八七式重爆撃機に搭乗して立川飛行場を出発したが、東京府北多摩郡砂川町の陸稲畑に墜落し、同乗した小川恒三郎・藤岡万蔵ら7人は即死、深山は搬送先の立川陸軍病院で死亡した[3]。
邇保姫神社(広島県広島市南区西本浦町12-13)の門柱左に「陸軍砲兵中佐深山亀三郎君殉職之碑」というのが立っている。
略歴
[編集]『航空殉職録 陸軍編』p.450-451による。
- 1909年(明治42年)3月 - 広島県立広島中学校卒業
- 1912年(明治45年/大正元年)
- 5月28日 - 陸軍士官学校卒業(24期)
- 12月24日 - 砲兵少尉
- 1914年(大正3年)11月25日 - 陸軍砲工学校普通科卒業
- 1915年(大正4年)
- 12月8日 - 陸軍砲工学校高等科卒業
- 12月25日 - 砲兵中尉
- 1917年(大正6年)1月9日 - 陸軍重歩兵射撃学校教官
- 1920年(大正9年)
- 8月23日 - 砲兵大尉
- 11月22日 - 陸軍大学校卒業(32期、恩賜)
- 12月1日 - 野戦重歩兵第6連隊中隊長
- 1921年(大正10年)5月13日 - 参謀本部第三課勤務
- 1922年(大正11年)4月1日 - 参謀本部部員
- 1925年(大正14年)1月6日 - 軍事研究のためイギリス駐在員として2年間ロンドン留学
- 1927年(昭和2年)
- 7月26日 - 砲兵少佐
- 8月2日 - 東京警備参謀
- 1928年(昭和3年)
- 3月24日 - 海軍軍令部参謀
- 12月12日 - 陸軍大学校兵学教官
- 1929年(昭和4年)
- 8月14日 - 死去
- 8月15日 - 陸軍砲兵中佐進級
栄典
[編集]- 1913年(大正2年)2月20日 - 正八位[4]
- 1916年(大正5年)3月20日 - 従七位[5]
- 1920年(大正9年)9月20日 - 正七位[6]
- 1924年(大正13年)7月26日 - 勲六等瑞宝章[7]
- 1929年(昭和4年)8月15日 - 従五位[8]、勲五等双光旭日章[9]