深谷盛房
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和4年(1767年) |
死没 | 嘉永7年(1854年) |
別名 | 通称:政之助、十郎左衛門、式部 |
官位 | 遠江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定 |
氏族 | 深谷上杉家庶流 |
父母 | 父:深谷盛朝、母:渡邊美之娘 |
兄弟 | 盛牝、男子、盛房 |
妻 | 安部信成娘 |
子 | 男子、盛徳 |
深谷 盛房(ふかや もりふさ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。上杉盛房とも呼ばれる。
略歴
[編集]家系は武蔵国の守護大名上杉氏の傍流である、深谷上杉家の子孫であった。
明和4年(1767年)、深谷盛朝の三男として誕生した。天明3年(1783年)に長兄の盛牝が早世したため、兄の跡を継いだ。
徳川家斉が将軍を襲封すると、盛房は重用された。寛政9年(1797年)に30歳で小納戸役となり、以後文政2年(1819年)二丸留守居、天保2年(1831年)に京都町奉行を歴任し、さらに天保8年(1837年)に66歳で勘定奉行、弘化元年(1844年)73歳で旗本最高役職とも言われる大目付に、と高齢になっても才を買われて幕府重職を歴任した。
海防掛も兼任し、嘉永6年(1853年)のアメリカ合衆国使節のペリー来訪、いわゆる「黒船来航」時は穏便な方針を主張したとされる。
大目付在任中の嘉永7年(1854年)6月、87歳まで勤めた大目付を老年のために致仕し、間もなく没した。
長子は早世しており、後は別の子の盛徳が継いだ。
登場作品
[編集]- テレビドラマ