清成迪
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清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2日[1] - 1988年(昭和63年)2月7日[2][3][4])は、日本の技術者。日立製作所取締役副社長を経て、動力炉・核燃料開発事業団理事長や、原子力委員会委員長代理を務めた。「もんじゅ」や「ふげん」の名付け親でもある。
人物・経歴
[編集]熊本県熊本市出身[1]。1928年九州帝国大学工学部卒業。1940年日立製作所取締役副社長[5]。1967年動力炉開発臨時推進本部委員[6]。動力炉・核燃料開発事業団副理事長在任中の1970年、大洗工学センターの発足式で、高速増殖炉もんじゅ、新型転換炉ふげんの命名を行った[7][8]。1972年動力炉・核燃料開発事業団理事長。1978年原子力委員会委員[5]。同年原子力委員会委員長代理。1981年退任[9]。
著書
[編集]- 『欧米だより』日立製作所、1953年。
- 『工場長室から』大谷真平、1958年。
- 『足袋は破れる』清成迪、1965年。
- 『足袋は破れる 続』清成迪、1973年。
- 『五風十雨』日立印刷出版センター、1985年。
脚注
[編集]- ^ a b 『大衆人事録 第25版 東日本編』帝国秘密探偵社、1966年、p.458。
- ^ 「清成 迪氏(きよなり・すすむ=日立製作所顧問、元原子力委員会委員、元動力炉・核燃料開発事業団理事長)」『毎日新聞』1988年2月8日、9面。
- ^ 「清成 迪氏(きよなり・すすむ=元原子力委員長代理、元動力炉・核燃料開発事業団理事長)」『読売新聞』1988年2月8日、19面。
- ^ 「清成 迪氏(きよなり・すすむ=元原子力委員長代理、元日立製作所副社長)」『朝日新聞』1988年2月8日、13面。
- ^ a b 原子力委員会委員に清成 氏及び島村武久氏就任原子力委員会月報10月号(第23巻第10号)
- ^ II 原子力委員会の計画および方針 12 動力炉開発臨時推進本部の設置について
- ^ 「核燃料サイクルと高速炉開発」 原子力産業協会
- ^ 「撚愁」 日本原子力産業協会
- ^ 「歴代原子力 委員」 原子力委
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