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渋沢正雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しぶさわ まさお

渋沢 正雄
生誕 1888年11月1日
死没 1942年9月10日
墓地 谷中霊園
国籍 日本の旗 日本
配偶者 渋沢鄰子
子供 渋沢正一
渋沢栄一(父)
渋沢かね(母)
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渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年明治21年〉11月1日[1] - 1942年昭和17年〉9月10日[2])は、日本実業家。子爵・渋沢栄一の三男[3]。日満鉄鋼販売[4]石川島自動車製作所、富士製鋼各社長[5][6]東京石川島造船所専務取締役[5]日本製鐵常務取締役兼八幡製鐵所[7]。族籍は東京府平民[8]

人物

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渋沢栄一の三男で、渋沢篤二渋沢武之助の弟、渋沢秀雄の兄[9][3][8]渋沢敬三渋沢信雄渋沢智雄の叔父。渋沢雅英渋沢裕の大叔父。 1906年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て1915年東京帝国大学法科大学経済学科卒業[9][3][10]。同年分家する[9][3]第一銀行に入り1917年、これを辞する[9][3]

渋沢貿易、富士製鋼、汽車製造、石川島造船所、石川島自動車、石川島飛行機、秩父鉄道、富士鋼材商会、日本鋼製建具、日本煉瓦製造日本鋼管各会社の重役だったが1932年末、総ての関係会社を辞任し製鉄業に専念する[3]1934年、製鉄合同と共に日本製鐵常務取締役に就任し、八幡製鐵所長を兼ねる[7]

趣味はスポーツ、囲碁、洋楽[3]柔道水泳乗馬[7]。宗教は仏教[3][7]。住所は東京市豊島区西巣鴨町[3][4][7]、同市外滝野川町西ヶ原[9][5]

家族・親族

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渋沢家
父の渋沢栄一。
甥の渋沢敬三。
渋沢家の人々。
親戚

系図

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脚注

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  1. ^ 第29巻(DK290009k) 本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、612頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第12版 上』シ51頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月17日閲覧。
  4. ^ a b 『日本紳士録 第44版』東京シの部289頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月25日閲覧。
  5. ^ a b c d e 『人事興信録 第9版』シ42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月17日閲覧。
  6. ^ a b 『大衆人事録 第3版』シ之部34頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月17日閲覧。
  7. ^ a b c d e 『人事興信録 第13版 上』シ47頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月24日閲覧。
  8. ^ a b 『人事興信録 第7版』し71頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月17日閲覧。
  9. ^ a b c d e 『帝国大学出身名鑑』シ29頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月6日閲覧。
  10. ^ 『東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年』学士及卒業生姓名 法学士 経済学科128頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月23日閲覧。
  11. ^ a b c d e 『人事興信録 第4版』し56頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月20日閲覧。
  12. ^ 壬生基義歴史が眠る多磨霊園
  13. ^ https://ameblo.jp/nobu630/entry-12787181954.html

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年』東京帝国大学、1913-1924年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第44版』交詢社、1940年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。