渡辺政人
渡辺 政人(わたなべ まさんど、1892年(明治25年)12月3日 - 1975年(昭和50年)2月27日)は、宮城県出身の実業家。
略歴
[編集]宮城県登米郡登米町(現登米市)日根牛五郎峯地区の農家である渡辺徳兵衛・かの夫妻の次男(5人兄弟の末子)として出生する[1][2]。15歳の時には兄がいた台湾へ渡って働いたり、工手学校(現・工学院大学)で建築を学んだりした後、1918年(大正7年)3月に明治大学商科を卒業[2]。同年4月より台湾銀行東京支店で働き始めるも、その5か月後に『中外商業新報』の白石元治郎の特集記事を読んだことをきっかけに、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)へ入社する[1]。
渡辺は、大正末期から昭和初期にかけての不況下において、鉄鋼会社間での協定成立に携わり[1]、1940年(昭和15年)9月には同社取締役に、1942年(昭和17年)12月には同社常務取締役に就任。また、1941年(昭和16年)3月には商工省の鉄鋼価格形成専門委員となり[1]、太平洋戦争開始後の同年12月10日に鉄鋼販売統制株式会社が発足すると同社社長にも就任した[3]。終戦後の1945年(昭和20年)12月、日本鋼管の副社長に、1946年(昭和21年)4月には同社社長に就任するが[1]、1947年(昭和22年)公職追放となり、5月に退社。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[4]。その後は、東京窯業社長などを経て、国策会社である東北開発(現三菱マテリアル)初代総裁に就任(1957年 - 1961年)。また、晩年には学校法人明治大学理事長も務めた[1]。
人物
[編集]渡辺は生まれ故郷の登米に対して強い愛郷心を抱き、社会人となった26歳から終生にわたり、登米地域へ様々な形での寄付や支援を行い続けた[1][2]。太平洋戦争末期には「本土決戦への備え」を主張して政府から便宜を引き出し、1945年5月に頑丈な鉄筋コンクリート製の登米大橋の完成にこぎつけ[2]、1961年(昭和36年)には戦前から集めていた伊達家関連の文化財とともに、それらの収蔵展示施設として登米懐古館を建設・寄贈した[1][2]。同館は、横山大観作「天長地久之図」、池大雅作「竹之図」他、伊達家ゆかりの品々など貴重な文化財約350点を収蔵するが、そのうち約200点が渡辺からの寄贈である[2]。1964年(昭和39年)には住民子弟の育成を支える登米渡辺奨学会も設立した[2]。
渡辺の遺訓3か条は次の通り[1]。
- 人生で一番大切なことは、誠実である。
- 登米は、私達の「家」である。
- 人間は、いつまでも「初心」を忘れてはならない。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『私の履歴書: 経済人 - 第 39 巻』(日本経済新聞社、2004)