コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

渡辺覚造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡辺覚造
わたなべ かくぞう
生年月日 1891年6月30日
出生地 日本の旗 日本 茨城県久慈郡世矢村
(現・茨城県常陸太田市
没年月日 (1972-03-01) 1972年3月1日(80歳没)
出身校 旧制愛知医科大学
(現・名古屋大学医学部)
前職 医師
現職 茨城県商工経済会会長
日本医療団顧問
茨城県医師会会長
日本原子力産業協会相談役
所属政党 同成会

在任期間 1942年1月23日 - 1947年5月2日

在任期間 1942年10月14日 - 1946年4月23日
テンプレートを表示

渡辺 覚造(わたなべ かくぞう、1891年明治24年)6月30日[1] - 1972年昭和47年)3月1日[2])は、日本医師政治家貴族院議員多額納税者水戸市長、医学博士[2]

経歴

[編集]

茨城県久慈郡世矢村(現・常陸太田市)出身[3]1919年(大正8年)旧制愛知医科大学(現・名古屋大学医学部)卒[1][注 1]。同大学付属病院に勤務[1][4]1929年(昭和4年)に水戸市で病院を開業する[1][2][3][4]1936年(昭和11年)大洗海岸結核患者のサナトリウム大貫海岸病院を開設した[1][3]

1942年(昭和17年)1月、茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税議員に互選され[1][2]、同月23日に就任し[5][6]同成会に所属[2]。同年10月、水戸市会の推薦により水戸市長に就任した[1][4]。市長在任中には市内の小学校の給食を開始[4]や市立図書館の開館[3]があり、1945年(昭和20年)8月2日には水戸空襲が起きた[4]。同月、終戦を迎え、翌9月に米軍が水戸に進駐[4]、水戸市の戦災復興に乗り出した[3]1946年(昭和21年)4月に市長を退任[4]1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで同議員を務めた[2][注 2]

その後は日本原子力産業会議の相談役に就任[3]。この他茨城県医師会会長[1][2]、日本医療団顧問[2]、茨城県商工経済会会長[3]などを歴任した。1972年死去。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』229頁では「大正15年(1926年)卒」と記載。
  2. ^ 渡辺は戦時中の水戸市長であり、翼賛政治体制協議会(翼協)茨城県支部の構成員(『茨城県史』近現代編、628頁。)だったことや、貴族院廃止後、公職に就いていないことから、公職追放されたと思われるが、『公職追放に関する覚書該当者名簿』715頁には渡辺の名前は無し。他は資料不足のため不明。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 『大衆人事録 第19版 東日本篇』611頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』229頁。
  3. ^ a b c d e f g 『茨城県大百科事典』1097頁。
  4. ^ a b c d e f g 『日本の歴代市長 第1巻』499頁。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
  6. ^ 『官報』第4511号、昭和17年1月24日。

参考文献

[編集]
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 『大衆人事録 第19版 東日本篇』帝国秘密探偵社、1957年。
  • 『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長 第1巻』歴代知事編纂会、1983年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。