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渡辺金六

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

渡辺 金六(旧字:渡邉 金六、わたなべ きんろく、? - 慶長2年(1597年)8月)は、戦国時代安土桃山時代藤堂高虎の家臣。「金六」は通称で、宗吉、または(はじめ)[1]伊勢津藩の重臣・藤堂内膳家[2]の初代にあたる。弟に島川専助(宗)[3]渡辺内膳(宗)[4]

なお、同じく藤堂家臣の渡辺了とは親戚関係にない。

略歴

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大和国人・島川専助の嫡男として誕生した。渡辺家の養子となり、弟の内膳が島川家を継いだ。島川家は、渡辺綱の母方の姓でありその子孫という[5]。島川家も藤堂家の家臣として続く。

天正10年(1582年)頃から 高虎に仕え、山崎の戦いに参陣した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは、槍傷を負いながらも戦う高虎を藤堂良勝[6]と共に諌め[7]、陣頭指揮をとった。武功もみられる[8]。その後、丸岡城を落とした高虎は奮戦を称され、1,300石の加増を受けた[9]。金六も戦後、合計4,600石となった高虎から加増を受ける[10]

さらに翌年、小牧・長久手の戦いにも従い、峯城松ヶ島城攻めで奮戦した。なおこのとき、5つもの傷を負った高虎が「俺の傷はいくらになった」と尋ね、金六は「これでは命がいくらあっても足りませぬ」と諌め手当てしたという逸話がある[11]

天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍、金六は戦後に粉河で5百石の加増を受ける。

四国征伐九州征伐小田原征伐文禄の役にも従軍する。

しかし文禄4年(1595年)に高虎の主君・豊臣秀保が死去すると、高虎は出家して高野山に上った。その後、 藤堂 高虎は 豊臣秀吉生駒親正に説得され5万石で復帰し、主君の帰還に喜んだ金六だったが、慶長の役南原城の戦い[12]にて戦死する。高虎は金六ら朝鮮での死者をひどく悼んだ。

金六には子がいなかったので、家督は弟の内膳が継ぎ、子孫は渡辺金六または内膳と称し、津藩重臣として幕末まで続いた。

脚注

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  1. ^ 当主代々の諱。
  2. ^ 2千石。諱は「宗」。
  3. ^ 島川家、伊賀付平藩士。
  4. ^ 藤堂内膳家(こちらを初代とするとも)、重臣。
  5. ^ 『島川家家系図』[要文献特定詳細情報]による。
  6. ^ 高虎の従弟。藤堂新七郎家の祖。
  7. ^ 江宮 p.97
  8. ^ 「四月二十日羽柴公越前の柴田修理亮勝家と、大に志津嶽の下に戦ふ、但馬公先鋒たり、夜参半、越前の先鋒佐久間盛政兵を引きて山に憑る、公其の未だ備へざるに乗じて急に馬標を進め、銃を叢めて之を射、煙に乗じ身を跳らして突戦し、創を被りて幾ど殆ふし、家臣渡邊金六宗来り援けて敵を刺す、良勝も亦一騎将を斬り、遂に敵鋒を挫き、要地を得て以て敵を制す、羽柴公禄千石を賞賜す、但馬侯も亦三百石を加ふ」『補註国訳聿脩録』pp.17 - 18
  9. ^ 桜木謙堂『高山公』p.18。
  10. ^ 『高山公実録 上巻』p.33。
  11. ^ 江宮 p.102
  12. ^ 慶長2年8月12日から15日

参考資料

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  • 桜木謙堂(謙二)『高山公』伊勢新聞社活版部、1913年(近代デジタルライブラリー所収)
  • 江宮隆之『七人の主君を渡り歩いた男‐藤堂高虎という生き方』KADOKAWA、2015年12月17日
  • 深谷克己『津藩』吉川弘文館、2002年
  • 上野市古文献刊行会(編)『高山公実録 上巻』清文堂出版、1998年
  • 藤堂高兌(著)藤堂家編述会(編纂)『補註国訳聿脩録』高山公三百年祭会、1930年