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游邃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

游 邃(ゆう すい、生没年不詳)は、西晋から五胡十六国時代の人物。

生涯

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広平郡任県を本貫とする漢人。晋の昌黎郡太守であった。

永嘉の乱により中原が乱れると、魏郡出身の黄泓やかつて昌黎郡太守であった逄羨宋奭宋晃の父)と共に幽州へ避難した。

やがて黄泓と共に、遼西に割拠していた慕容部の大人慕容廆に帰順した。游邃らは慕容廆から客人の礼をもって厚遇された。

建興元年(313年)4月、股肱(腹心)に抜擢された。

大興元年(318年)3月、龍驤長史に任じられ、慕容部における儀法の制定に携わった。

大興4年(321年)12月、慕容廆が東晋より遼東公に冊封されると、裴嶷と共に改めて長史に任じられた。

その後の動向は不明である。

逸話

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幽州を統治する司空王浚は游邃の兄の游暢へ幾度も手紙を出し、幕僚として招聘しようとした。游暢はこれに応じて王浚の下へ赴こうとしたが、游邃は「彭祖(王浚の字)の刑政(刑事と政事)は修まっておらず、華戎(漢民族と異民族)も離反しております。この邃が考えるところ、その治世は長くは持たないでしょう。なのに、どうして兄上は動かずにその運命を待とうというのですか」と反対した。これに游暢は「彭祖は残忍で猜疑心が強い。流民が(王浚を見限って)北へ行こうとした時には、これを尽く殺したこともあったという。今、彼は何度も私へ呼びかけているのに、もし私が応じなければ、卿(游邃)にまで禍が及んでしまうだろう。また今は乱世であるから、一族で別々に属した方が子孫を残しやすいであろう」と述べると、游邃はこれに従った。こうして游暢は王浚に帰順したが、後に王浚と共に石勒の手に掛かり、命を落とした。

広平游氏

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始祖の游述三国時代河南尹大長秋を歴任した[1]

王浚の司馬であった游統、その弟で石勒の主簿であった游綸は游邃の同族であり、游暢・游邃と共に著名な存在であった。

游暢の子の游泓[2]は游邃と同じく慕容部(前燕)に仕え、居就県令に任じられた。

広平游氏は北魏の代まで繁栄し、尚書游明根、その子で尚書右僕射游肇、同族の散騎常侍游雅は高官を歴任している。

脚注

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  1. ^ 『金石録』巻20
  2. ^ 『十六国春秋』では、游邃の実子であるとする。

参考文献

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