湯浅浪男
ゆあさ なみお 湯浅 浪男 | |
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本名 |
同 湯 慕華 (1971年帰化後) |
別名義 |
岩佐 浪男 (いわさ なみお) 湯 淺 (とう せん) 湯 濳 (とう せん) |
生年月日 | 1927年 |
出生地 | 中華民国 ハルビン特別市 |
国籍 |
日本 ⇒ 台湾 (1971年帰化) |
職業 | 映画監督、脚本家、元映画館経営者 |
ジャンル | 劇場用映画(成人映画、教育映画) |
活動期間 | 1940年代 - 1970年代 |
事務所 | 第7グループ事務所 |
湯浅 浪男(ゆあさ なみお、1927年 - 1991年 )は、日本でのキャリアを経て台湾に帰化した映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元映画館経営者である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。
人物
[編集]20年間におよぶ映画館勤務から小千谷東映支配人を経て、1962年(昭和37年)11月、映画製作会社第7グループ事務所を設立、興行畑から製作畑へ転向する[1][2][3][4][6]。1964年(昭和39年)6月、岩佐 浪男(いわさ なみお)の名で監督デビュー、翌1965年(昭和40年)からは本名に戻し、黎明期の成人映画を量産、松竹との配給提携も行い、安藤昇の映画初主演作『血と掟』および初期出演作を監督する[1][2][6][8][9][10][11]。1966年(昭和41年)に行った台湾との合作をきっかけに活動拠点を台湾に移し、1971年(昭和46年)6月、正式に帰化する[1][6][7]。帰化後の本名は湯 慕華(とう ぼか、タン・ムーファ)[6][7][12]。別名湯 淺あるいは湯 濳(とう せん)[6]。
本項では日本での活動の長さと作品量に鑑み、表題を日本名とした[1][2][5][8][9][10][11][12]。
来歴
[編集]興行から製作へ
[編集]1927年(昭和2年)、中華民国ハルビン特別市(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に生まれる[6]。
内地に引き揚げた後、1940年代に映画館勤務を始め[1][6]、1953年(昭和28年)2月に茨城県猿島郡古河町(現在の同県古河市)の新興館の経営が変わり、館名を古河セントラル劇場(経営・森田三郎、のちの古河オデオン)と変更[13][14]、湯浅は26歳で同館の支配人に就任している[14]。同館は戦前から存在する古い映画館で、新興館になる前は共楽館という館名であった[15]。その後、1955年(昭和30年)には、古河セントラル劇場を退職して同県水戸市の水戸大映映画劇場(経営・間宮厚)に移籍、同館の支配人に就任している[14][16]。同館支配人を8年間務め[1][6]、1963年(昭和38年)には新潟県小千谷市の小千谷東映を経営[3]、映画館で20年のキャリアを積む[1][6]。
それに並行し、1962年(昭和37年)11月、映画製作会社として第7グループ事務所を設立[1][2][6]、事務所を東京都港区赤坂新町(現在の赤坂7丁目5番34号)のリキビルに置き、湯浅は同社の代表を務めた[4]。同社設立第一作として、成人映画『熱いうめき』を製作、監督として元新東宝の三輪彰を招いた[1][8][10][11][17]。同作は、1963年(昭和38年)4月25日に公開された[1][8][10][11][17]。三輪は、同作のあと『成熟への階段』(1963年11月公開)、『濡れた手』(1964年5月公開)を監督したがこれで降板し、1964年(昭和39年)6月に公開された『夜の魔性』については、湯浅が岩佐 浪男の名で監督した[1][6][8][10][11]。翌1965年(昭和40年)1月に公開された湯浅の監督作『禁じられた遠い道』からは、本名に戻した[1][4][6][8][11]。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、宮口圭、深田金之助、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、湯浅の名を挙げている[2]。
事務所でスポーツ新聞に目を通していた湯浅は、安藤昇が書いた「安藤組解散の手記」を読んで、現金50万円を懐に安藤の自宅を訪問し、映画化権を取得して、『血と掟』の企画を実現する。当初は新東宝の俳優が主演する予定だったが、湯浅の熱意で安藤昇本人が出演することになった。[1][6][8][9][10][11]。同作は松竹が配給して全国公開され[1][6][8][9][10][11]、同年度の松竹の配給作品で最高の興行収入を上げている[18]。以降、女優・桑野みゆきの父・齋藤芳太郎が主宰したCAGで安藤組関連のヴァイオレンス映画を数本監督し、松竹に供給することになる[1][6][8][9][10][11]。1966年(昭和41年)6月に公開された『危険な戯れ』(主演松井康子)以降は、同じ赤坂の国際ビデオ(代表・建部博、1962年5月設立[2][5])と提携して、映画製作を行った[1][8][11]。「独立プロ初の十大女優総出演による超大作」と銘打ち、香取環、松井康子、谷口朱里、可能かづ子、飛鳥公子、桂奈美、清水世津らが出演した成人映画『悲器』(1966年9月公開)からは、国映(代表・矢元照雄、1957年6月設立[2])と提携した[1][8][11][19]。同年11月、台湾との合作『母ありて命ある日に』をきっかけに台湾に渡った[1][6]。
台湾では、同年中に『霧夜的車站』および『東京流浪者』を公開し、日本に増して劇場用映画を量産しており、1969年(昭和44年)には台湾(中華民国)への帰化を申請している[1][6][7]。両作には東條民枝(旧名・君和田民枝)、神原明彦[20]、山本昌平、津崎公平、川辺健三、当時湯浅の助監督であった安藤達己(1938年 - 2013年)が出演しており、津崎は『青春悲喜曲』『懐念的人』、安藤は『難忘的大路』にも出演している[7]。1970年(昭和45年)には、同地において1967年(昭和42年)に公開されていた『大忍術映画 ワタリ』(監督船床定男、日本公開1966年7月21日)[21]で絶大な人気を得た少年俳優金子吉延を日本から招聘し、金子を主演に『神童桃太郎』『桃太郎斬七妖』の2作を製作、湯浅はこれを湯 慕華の名で監督している[6][12]。1971年(昭和46年)6月、正式に帰化する[1][6][7]。
『日本映画監督全集』の湯浅の項を執筆した山根貞男は、1975年(昭和50年)の夏に日本に一時帰国、その後、台湾に戻ったという話を伝えているが[1]、その後の消息は不明である。台湾で22作の劇場用映画を監督、あるいは脚本提供していることがわかっている[6]。『悲器』の撮影技師であり、ともに台湾に渡り、『霧夜的車站』等の撮影をした中條伸太郎(1934年 - 2001年)[22][23]は、2001年(平成13年)7月2日に台北で亡くなっており[7]、湯浅の助監督を務め、台湾では俳優として出演した安藤達己も、2013年(平成25年)2月7日に亡くなった[24]。
湯浅浪男は、平成3年4月22日に65才で亡くなり、横浜戸塚区にあるメモリアル・グリーンで眠っており、墓守は養子の義勝が行っている。
台北では、(財)国家電影中心が熱心に資料を残している。
再評価
[編集]2009年(平成21年)3月14日 - 同年5月15日にラピュタ阿佐ヶ谷で行なわれた「60年代まぼろしの官能女優たち」の特集上映で、監督作『悲器』(主演・香取環、松井康子、同年5月9日 - 同15日)が16mmフィルムヴァージョンで上映された[19]。
台湾では『懐念的人』[25]、『朱洪武續集劉伯温傳』、『甘羅拜相』等がDVD化されている。
フィルモグラフィ
[編集]特筆以外のクレジットはすべて「監督」、名義は特筆以外はすべて「湯浅浪男」名義である[1][5][6][8][9][10][11][12]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[26]。
日本
[編集]- 『熱いうめき』 : 企画久我誠道、監督三輪彰、脚本三木康士、主演五所怜子、製作第7グループ事務所、1963年4月25日公開(成人映画・映倫番号 13190) - 製作
- 『成熟への階段』 : 監督三輪彰、主演内田礼子、製作第7グループ事務所、1963年11月公開(成人映画・映倫番号 13452) - 製作
- 『濡れた手』 : 製作並木謹也・関博・磯木保守、監督三輪彰(岡田三八雄とも)、主演生田三津子、製作第7グループ事務所、配給新東宝映画、1964年5月公開(成人映画・映倫番号 13618) - 脚本(三輪彰とも)・原作、「岩佐浪男」名義
- 『夜の魔性』 : 製作関博・磯木保守、主演森島みどり、製作第7グループ事務所、1964年6月公開(成人映画・映倫番号 13495) - 監督(川島始郎とも)・原作・脚本、「岩佐浪男」名義
- 『夜の裸を探せ』 : 製作関博・磯木保守、監督吉村大介(川島始郎とも)、主演林杏子・戸塚茂子、製作第7グループ事務所、配給新東宝映画、1964年6月公開(成人映画・映倫番号 13551) - 脚本(吉村大介とも)・原作、「岩佐浪男」名義
- 『禁じられた遠い道』 : 製作松本圭石、企画関博、主演華村明子、製作第7グループ事務所、1965年1月公開(成人映画・映倫番号 13814) - 監督・脚本
- 『性宴』 : 製作吉原繁子、企画関博・磯木保守、主演香取環、製作第7グループ事務所、1965年3月公開(成人映画・映倫番号 13898) - 監督・脚本
- 『牝蜂』 : 主演香取環、製作第7グループ事務所、1965年4月公開(成人映画・映倫番号 13942)
- 『血と掟』 : 製作吉原繁子、企画関博・磯木保守、原作・主演安藤昇、製作第7グループ事務所、配給松竹、1965年8月29日公開(成人映画・映倫番号 14062) - 監督・脚本
- 『やさぐれの掟』 : 製作木村裕三・斎藤芳朗、主演高宮敬二、製作CAG、配給松竹、1965年9月30日公開(成人映画・映倫番号 14184) - 監督・脚本
- 『逃亡と掟』 : 製作斎藤芳朗、企画・原作・主演安藤昇、製作CAG、配給松竹、1965年11月20日公開(成人映画・映倫番号 14233) - 監督・脚本
- 『顔を貸せ』 : 製作斎藤芳朗、主演高宮敬二、製作CAG、配給松竹、1966年2月19日公開(成人映画・映倫番号 14325) - 監督・小林久三・林朗と共同で脚本
- 『医学カードより・お電話頂戴』(『お電話頂戴』) : 監督若松孝二、主演路加奈子、製作第七グループ・若松プロダクション、配給新東宝映画、1966年4月公開(成人映画・映倫番号 14479) - 脚本
- 『東京無宿』 : 製作斎藤芳朗・瀬島光雄、主演藤岡弘、製作CAG、配給松竹、1966年5月14日公開(映倫番号 14396) - 監督・脚本
- 『危険な戯れ』 : 主演松井康子、製作・配給国際ビデオ、1966年6月公開(成人映画・映倫番号 14544) - 監督・脚本
- 『非行少女の群れ』 : 主演北御門杏子、製作・配給国際ビデオ、1966年7月公開(成人映画・映倫番号 14577)
- 『夜は憎い』 : 主演火鳥こずえ、製作・配給国際ビデオ、1966年9月公開(成人映画・映倫番号 14645)
- 『悲器』 : 製作矢元照雄、企画朝倉大介、撮影中條伸太郎、主演香取環・松井康子、製作湯浅プロダクション、配給国映、1966年9月公開(成人映画・映倫番号 14669) - 監督・脚本、16mmフィルム版プリントが現存[19]、ハミングバードがVHS発売
- 『母ありて命ある日に』 : 1966年11月製作(日本・台湾合作・未完成)
- 『悪女志願』 : 主演清水世津、製作・配給国映、1966年11月公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『狂った挑発』 : 主演清水世津・水城リカ、製作湯浅プロダクション、配給国映、1966年12月公開(成人映画・映倫番号 14711) - 監督(安藤達己と共同とも)
台湾
[編集]- 『霧夜的車站』(『霧夜的火車站』[7]) : 撮影中條伸太郎[7][23]、出演東條民枝・神原明彦・山本昌平・津崎公平・安藤達己、製作永裕有限公司、1966年公開 - 監督・脚本
- 『東京流浪者』 : 出演東條民枝・神原明彦・山本昌平・津崎公平・安藤達己、製作永芳有限公司、1966年公開 - 監督・脚本
- 『青春悲喜曲』 : 撮影中條伸太郎[7]、出演津崎公平、製作永裕有限公司、1967年6月5日公開 - 監督・脚本
- 『尋母到東京』 : 製作新亞有限公司、1967年公開 - 監督・脚本
- 『懐念的人』 : 撮影中條伸太郎[7]、出演津崎公平、製作永新有限公司、1967年7月22日公開 - 監督・脚本、豪客唱片がDVDを発売
- 『難忘的大路』 : 出演安藤達己、製作永新有限公司、1967年8月6日公開 - 監督・脚本
- 『絶唱』 : 製作新亞有限公司、1967年製作(公開情報不明[6]) - 監督・脚本
- 『法網難逃』 : 製作永裕有限公司、1968年公開 - 監督・脚本
- 『往日的舊夢』 : 監督徐守仁、製作永裕有限公司、1968年公開 - 脚本、「湯淺」名義
- 『妙夫妙妻』 : 監督辛奇、製作永裕有限公司、1968年公開 - 脚本、「湯淺」名義
- 『天使與狼』(『狼與天使』[7]) : 製作現代電影電視實驗中心、1968年公開 - 監督、「湯濳」名義
- 『飛龍王子破群妖』 : 製作國民教育有限公司、1969年公開 - 監督、「湯慕華」名義
- 『戰国春秋』 : 製作國民教育有限公司、1970年製作(公開情報不明[6]) - 監督、「湯慕華」名義
- 『洛陽橋』 : 製作國藝公司、1970年製作(公開情報不明[6]) - 監督、「湯慕華」名義
- 『小飛侠』 : 製作現代電影電視實驗中心、1970年公開(1967年公開とも[7]) - 監督、「湯濳」名義
- 『神童桃太郎』 : 脚本大竺、主演金子吉延、製作國民教育有限公司、1970年公開 - 監督、「湯慕華」名義
- 『桃太郎斬七妖』 : 脚本大竺、主演金子吉延、製作錦華有限公司、1970年公開 - 監督、「湯慕華」名義
- 『二郎神楊戩』 : 製作錦華有限公司、1970年公開 - 監督、「湯慕華」名義
- 『魔笛神童』 : 製作錦華有限公司、1970年公開 - 監督、「湯慕華」名義
- 『甘羅拜相』 : 製作台旭影業社、1971年3月9日公開 - 監督、「湯慕華」名義、台旭電影事業がDVDを発売
- 『妙想天開』 : 製作朝陽昇有限公司、1971年公開 - 監督・脚本、「湯慕華」名義
- 『朱洪武續集劉伯温傳』 : 製作台旭有限公司、1971年12月31日公開 - 監督、「湯慕華」名義、台旭電影事業がDVDを発売
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w キネ旬[1976], p.441.
- ^ a b c d e f g h 田中[1976], p.85-86.
- ^ a b c 便覧[1964], p.66.
- ^ a b c d 年鑑[1966], p.325, 386.
- ^ a b c d 年鑑[1967], p.332-333, 382.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 武久康高「映画「神童桃太郎」「桃太郎斬七妖」(1970,台湾)について -戦後台湾における「桃太郎」-」『日本語文化研究』第11号、比治山大学日本語文化学会、2009年12月、(1)-(8)頁、CRID 1050295757690979072、ISSN 1344-4557。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 黃[2008], p.238-249.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 湯浅浪男・岩佐浪男、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g 湯浅浪男・岩佐浪男、日本映画製作者連盟、2014年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 湯浅浪男・岩佐浪男、KINENOTE, 2014年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 湯浅浪男・岩佐浪男、日本映画データベース、2014年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e Namio Yuasa・Mu-hua Tang、インターネット・ムービー・データベース 、2014年8月29日閲覧。
- ^ 年鑑[1951], p.344.
- ^ a b c 総覧[1955], p.33.
- ^ 年鑑[1942], 10章 p.48.
- ^ 便覧[1956], p.31-32.
- ^ a b 三輪彰 - 日本映画データベース、2014年8月29日閲覧。
- ^ 松竹[1985], p.276.
- ^ a b c 60年代まぼろしの官能女優たちPART II、ラピュタ阿佐ヶ谷、2014年8月29日閲覧。
- ^ 神原明彦 - 日本映画データベース、2014年8月29日閲覧。
- ^ 大忍術映画 ワタリ - KINENOTE, 2014年8月29日閲覧。
- ^ 中條伸太郎 - 日本映画データベース、2014年8月29日閲覧。
- ^ a b 中條伸太郎、国家電影中心 、2014年8月29日閲覧。
- ^ 安藤達己監督・安らかに…、ひし美ゆり子、2013年3月15日付、2014年8月29日閲覧。
- ^ 懐念的人、豪客唱片 、2014年8月29日閲覧。
- ^ 所蔵映画フィルム検索システム検索結果、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月29日閲覧。
参考文献
[編集]- 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
- 『映画年鑑 1956 別冊 映画便覧』、時事通信社、1956年
- 『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』、時事映画社、1964年発行
- 『映画年鑑 1966』、時事通信社、1966年発行
- 『映画年鑑 1967』、時事通信社、1967年発行
- 『日本映画作品全集』、『キネマ旬報』増刊第619号、キネマ旬報社、1973年11月20日発行
- 『日本映画発達史 V 映像時代の到来』、田中純一郎、中公文庫、中央公論社、1976年7月10日 ISBN 4122003520
- 『日本映画監督全集』、『キネマ旬報』増刊第698号、キネマ旬報社、1976年12月24日発行
- 『松竹九十年史』、松竹、1985年発行
- 『日本電影在臺灣』、黃仁、秀威資訊、2008年12月1日 ISBN 9789862211205
- 『映画論叢 22』、丹野達弥、国書刊行会、2009年11月 ISBN 4336051712
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]画像外部リンク | |
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性宴 1965年3月公開 (第7グループ事務所) | |
血と掟 1965年8月29日公開 (第7グループ事務所・松竹) | |
逃亡と掟 1965年11月20日公開 (CAG・松竹) | |
医学カードより お電話頂戴 1966年4月公開 (若松プロダクション・第7グループ事務所・新東宝映画) |