源俊雅
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 嘉承元年(1105年) |
死没 | 久安5年(1149年) |
官位 | 正四位下、参議、左大弁 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
氏族 | 醍醐源氏高明流 |
父母 | 父:源能俊、母:源頼綱の女 |
兄弟 | 能賢、政明、俊雅、光隆、能智、能覚、能献 |
妻 | 不明 |
子 | 俊定 |
源 俊雅(みなもと の としまさ)は、平安時代の公卿。父は正二位大納言治部卿中宮大夫源能俊、母は三河守源頼綱の女。極位極官は正四位下参議左大弁。参議に任ぜられてからわずか3ヶ月で死去してしまった。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 永久2年(1114年)1月5日、叙爵。
- 大治2年(1127年)11月15日、昇殿。
- 大治3年(1128年)1月26日、治部権大輔に任ぜられる。
- 大治4年(1129年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 天承元年(1131年)12月24日、左少将に任ぜられる。
- 天承2年(1132年)1月5日、正五位下に昇叙。同月22日、播磨権介を兼ねる。同年12月25日、右少弁に任ぜられる。
- 長承3年(1134年)2月24日、左少弁に転任[1]。
- 保延3年(1137年)10月6日、権右中弁に転任。
- 保延4年(1138年)1月5日、従四位下に昇叙。
- 保延5年(1139年)10月25日、還昇。
- 保延6年(1140年)閏5月1日、従四位上に昇叙[2]。
- 永治元年(1141年)12月3日、右大弁に転任。同月7日、新帝昇殿。
- 久安元年(1145年)11月19日、正四位下に昇叙[3]。
- 久安2年(1146年)3月1日、院別当に補される。
- 久安4年(1148年)10月13日、左大弁に転任。
- 久安5年(1149年)7月28日、参議に任ぜられる。同年8月2日、左大弁は元の如し。同年9月20日、卒去。享年45才。