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源保光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 保光
時代 平安時代
生誕 延長2年(924年
死没 長徳元年5月9日995年6月9日
別名 桃園中納言
官位 従二位中納言
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 醍醐源氏
父母 父:代明親王、母:藤原定方の娘
兄弟 重光保光延光遠光恵子女王荘子女王、厳子女王
不詳
永光藤原義孝室、藤原懐平
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源 保光(みなもと の やすみつ)は、平安時代公卿醍醐源氏代明親王の次男。官位従二位中納言桃園中納言と号す。

経歴

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村上朝前期の天暦5年(951年)正月に従四位下に直叙されると、2月には皇孫ながら文章生となる。民部大輔侍従を歴任したほか、天徳2年(958年)には紀伊権守として地方官も務めた。またこの間の応和3年(963年)従四位上に叙せられている。

村上朝末の康和3年(966年)正月に右中弁に任ぜられると、同年9月に左中弁、康和5年(968年)右大弁と弁官として昇進を重ねる。安和2年(969年円融天皇即位後まもなく蔵人頭(頭弁)に補せられ、天禄元年(970年参議に任ぜられ公卿に列した。

議政官として左右大弁を兼帯する一方、天禄3年(972年正四位下、天延4年(976年従三位と昇叙されている。その後も、貞元3年(978年権中納言永観2年(984年正三位と円融・花山一条朝にかけて昇進を続け、永延2年(988年)に中納言に至る。

正暦6年(995年)正月に従二位に昇るも、当時流行した疫病により同年5月9日薨去享年72。埋葬地ははじめ松前寺。左京にある邸宅は外孫の藤原行成に伝えられた。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『権記』寛弘8年7月11日条
  2. ^ 『権記』正暦4年正月29日条

参考文献

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年