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源光国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 光国
時代 平安時代後期
生誕 康平6年(1063年
死没 久安3年12月12日1148年1月5日
改名 師時(初名)→光国
墓所 兵庫県川西市満願寺(供養塔)
官位 従五位上左兵衛尉右衛門尉左衛門尉検非違使出羽守
主君 白河院
氏族 清和源氏頼光流(美濃源氏
父母 父:源国房、母:木工大夫正中の娘
兄弟 光国光俊光忠源信雅
左衛門尉家実の娘、大中臣輔清の娘
光信光成光保源全(多田禅師)
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源 光国(みなもと の みつくに)は、平安時代後期の武将伊豆守源国房の長男。初名は師時(『尊卑分脈』)。

略歴

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寛治元年(1087年)に左兵衛尉から右衛門少尉となり、同5年(1092年)には白河院鞍馬寺参詣に供奉している(『為房卿記』『本朝世紀』『中右記』)。検非違使となっていた嘉保元年(1094年)には、京で火災が起こり光国の郎党が前天台座主良真の西京の邸宅に押し入り強盗を働く(『中右記』[1] )。康和元年(1099年)正月に叙爵。この際受領の地位を望むが叶わなかった(『後二条師通記』『時範記』)。

康和5年(1103年)の宗仁親王(後の鳥羽天皇立太子の儀や嘉承元年(1106年)の石清水八幡宮参詣などにおいて何れも大夫尉として白河院に供奉(『為房卿記』『永昌記』)。その後、出羽守となり、天仁2年(1109年)に起きた源義綱一族の追討事件では源為義と共に追討の任にあたる(『殿暦』)。

事件後任国である出羽に赴くが、天永元年(1110年)に摂関家領であった出羽国寒河江荘に濫入[2]した上、任国を無断で放棄し美濃の所領に帰った[3](『中右記』『殿暦』)。天永4年・永久元年(1113年)に延暦寺興福寺による大規模な強訴永久の強訴)が起こると、平正盛や源為義などと共にこれの防衛にあたる[4](『長秋記』)。

永久5年(1117年)および天治元年(1124年)に、父・国房より伝領していた美濃国内の私領鶉郷の郷司以下住人による茜部荘押妨が依然続いているとして同荘領家東大寺に訴えられたが、侵入の事実は無く狼藉については在京であるがため詳知していないとして牢籠を続けた[5](『東南院文書』)[6]

久安3年(1147年)に85歳で卒去した(『尊卑分脈』)[6]

系譜

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脚注

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  1. ^ 「大日本史料」 3編3冊484頁
  2. ^ 『殿暦』「大日本史料」3編10冊878頁
  3. ^ この事件で光国が美濃へ帰った理由は定かでないが、前述の源義綱一族の滅亡に絡む美濃国内の権益獲得が背後にあった可能性が指摘されている(宮崎康充 「古代末期における美濃源氏の動向」)。
  4. ^ 『中右記』「大日本史料」3編14冊179頁
  5. ^ 『東大寺文書』「大日本史料」3編18冊436頁
  6. ^ a b 横山 2024, pp. 21–22.

参考文献

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  • 宮崎康充 「古代末期における美濃源氏の動向」『書陵部紀要』第30号(宮内庁書陵部、1979年)
  • 横山, 住雄『美濃土岐氏―平安から戦国を駆け抜けた本宗家の戦い』戎光祥出版株式会社、2024年4月10日。ISBN 978-4-86403-504-0