源忠国 (檜垣太郎)
表示
源 忠国(みなもと の ただくに、生年未詳 - 建保4年11月20日?[1](1216年))は、平安時代末期の武士・官人。清和源氏頼平流。源忠光の子。諱は初め頼盛と称した[2]。号は檜垣太郎。天台座主となった忠尋は大叔父にあたる。
代々「檜垣」を称したが、その本拠地は未詳[3]。藤原忠実の家人であり「武士」を称する存在であったが、康治2年(1143年)6月、口論から不仲となっていた同じく忠実の家人・辻二郎源惟正[4]と山城国内の「宇治双子墓」付近で互いに陣を張り合戦する構えをみせたとして忠実の命を受けた左衛門尉源為義によって郎党と共に捕らえられ拘禁される(『本朝世紀』同年6月13日条)。翌7月、軍兵を興し合戦を企てた罪により佐渡国への配流が言い渡された(『本朝世紀』同7月25日条)。なお『尊卑分脈』には「建保四年十一廿経実被殺云々」との記述があるが詳細については不明。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『尊卑分脈』。
- ^ 『尊卑分脈』『本朝世紀』。
- ^ 『本朝世紀』には「檜垣太郎」とあるが、『尊卑分脈』では曽祖父忠季の代より「檜坂」を号したとある。また「檜垣」の地は未詳であるが、源頼平の後裔(柏原氏、大田氏など)は近江国に地盤を有していたと考えられている。
- ^ この惟正という人物も「武士」を称し、また忠国と共に「両人源家末葉」とも記されるがその出自は未詳。但し『尊卑分脈』清和源氏満政流系図に辻岡氏(辻氏)があり、「辻五郎維正」の名がみえているが同人であるかは不明。