源方理
表示
源 方理(みなもとの かたまさ/のりまさ、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。醍醐源氏、権大納言・源重光の子。官位は従四位下・民部大輔。
経歴
[編集]長徳元年(995年)ごろ右近衛少将に任ぜられ、長徳2年(996年)正月に備後介を兼ねる。しかし、同年4月に長徳の変が発生すると、内大臣・藤原伊周の義兄弟であったために、方理も連坐して殿上簡を削られた[1]。同年7月に昇殿は許されないまま本官(右近衛少将兼備後介)に復される。
寛弘2年(1005年)民部大輔に任ぜられる。寛弘6年(1009年)左大臣・藤原道長と中宮・藤原彰子親子を呪詛するために、方理は高階光子らと厭符の製作を僧・円能に依頼したことが発覚し、捕らえられ官位を剥奪された[2]。
寛弘7年(1010年)復位されると、三条朝では皇后・藤原娍子の皇后宮亮を務める。後一条朝では中務大輔・主殿頭・民部大輔を歴任した。
官歴
[編集]- 時期不詳:従五位下
- 長徳元年(995年) 12月1日:見右近衛少将[3]
- 長徳2年(996年) 正月25日:兼備後介。4月24日:被削殿上簡[3]。7月27日:可従本府役宣旨、不聴昇殿[3]
- 長保元年(999年) 9月24日:左近衛少将?[4]
- 長保2年(1000年) 正月25日:止備後介?[4]
- 寛弘2年(1005年) 6月19日:民部大輔[3]
- 寛弘6年(1009年) 2月20日:除名[5]
- 寛弘7年(1010年) 12月29日:復位(四位)[5]
- 長和3年(1014年) 3月30日:見皇后宮亮(皇后・藤原娍子)[3]
- 寛仁4年(1020年) 11月27日:見中務大輔[3]
- 治安元年(1021年) 6月27日:見主殿頭[6]
- 万寿4年(1027年) 2月25日:見民部大輔[3]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『立命館文學 - 第 582〜587号』(立命館大学人文科学研究所、2004年、400p)
- 『源氏物語の史的研究』(思文閣出版、21p)
- 市川久編『近衛府補任 第一』続群書類従完成会、1992年
- 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年