源直
表示
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
---|---|
生誕 | 天長7年(830年) |
死没 | 昌泰2年12月26日(900年1月30日) |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 文徳天皇→清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏 |
父母 | 父:源常、母:不詳 |
兄弟 |
興、頴、直、相、備 養兄弟:啓 |
妻 | 不詳 |
子 | 同 |
源 直(みなもと の すなお)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨源氏、左大臣・源常の三男[1]。官位は従三位・参議。
経歴
[編集]文徳朝の仁寿4年(854年)従五位下に叙せられ、翌斉衡2年(855年)侍従に任ぜられる。その後、文徳朝末の天安元年(857年)10月に中務少輔に転じ、さらに天安2年(858年)5月に兵部少輔に遷った。
同年11月の清和天皇の即位に伴って従五位上に叙せられる。清和朝前半は引き続き兵部少輔を務める一方、貞観9年(867年)正五位下に叙せられている。その後、貞観10年(868年)右中弁、貞観12年(870年)左中弁、貞観15年(873年)蔵人頭、貞観16年(874年)右近衛権中将と清和朝半ばは文武の要職を歴任し、この間の貞観13年(871年)従四位下に昇叙された。貞観17年(875年)病気のために蔵人頭を辞任するが、引き続き光孝朝まで10年以上に亘って近衛中将を務め、この間の貞観18年(876年)従四位上、元慶元年(877年)正四位下と昇進している。
光孝朝の仁和2年(886年)参議に任ぜられ公卿に列す。光孝朝から宇多朝前半にかけて、議政官として左大弁を兼帯した。寛平4年(892年)兼官が左大弁から右衛門督に遷り、寛平8年(896年)従三位に至る。寛平9年(897年)右衛門督の兼官も解かれ、讃岐権守のみを兼ねた。
醍醐朝の昌泰2年(899年)12月26日出家するが、即日薨去[1]。享年71。最終官位は参議従三位行讃岐権守。
官歴
[編集]注記のないものは『日本三代実録』による。
- 時期不詳:正六位上
- 仁寿4年(854年) 正月7日:従五位下
- 斉衡2年(855年) 8月23日:侍従
- 天安元年(857年) 10月27日:中務少輔
- 天安2年(858年) 5月11日:兵部少輔。11月7日:従五位上
- 貞観5年(863年) 2月10日:山城権守。2月16日 :兵部少輔
- 貞観9年(867年) 正月7日:正五位下。2月11日:木工頭
- 貞観10年(868年) 正月16日:右中弁
- 貞観12年(870年) 正月25日:左中弁
- 貞観13年(871年) 正月7日:従四位下[1]
- 貞観15年(873年) 12月:蔵人頭[1]
- 貞観16年(874年) 2月29日:右近衛権中将、止左中弁[1]
- 貞観17年(875年) 正月13日:兼相模権守[2]。2月:辞蔵人頭[1]。8月15日:右近衛中将[1]
- 貞観18年(876年) 正月7日:従四位上[1]
- 貞観19年(877年) 正月15日:兼備中守[1]。11月21日:正四位下
- 元慶3年(879年) 正月11日?:止備中守[2]
- 元慶5年(881年) 2月15日:兼肥後守[1]
- 元慶6年(882年) 2月3日:兼美濃守(受領)[2]
- 元慶9年(885年) 正月16日?:止美濃守[2]
- 仁和2年(886年) 6月13日:参議、止右近衛中将[2]
- 仁和3年(887年) 2月2日:兼播磨権守[1]
- 仁和4年(888年) 11月4日:正四位上[1]
- 仁和5年(889年) 2月8日:兼刑部卿[1]。
- 寛平2年(890年) 閏9月20日:兼左大弁[1]。11月21日:兼右衛門督[1]
- 寛平3年(891年) 4月11日:兼民部卿、左大弁如元[1]
- 寛平4年(892年) 正月23日:兼越前守[1]。2月21日:兼右衛門督、止左大弁民部卿[1]
- 寛平7年(895年) 2月11日:兼備前権守[1]
- 寛平8年(896年) 正月7日:従三位[1]
- 寛平9年(897年) 5月25日:兼讃岐権守、去右衛門督[1]
- 昌泰2年(899年) 12月26日:出家、薨去(参議従三位行讃岐権守)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:源常
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:源同(または周)