源舒
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 天長5年(828年)[1] |
死没 | 元慶5年11月29日(881年12月23日) |
別名 | 西七条宰相 |
官位 | 正四位下、参議 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇→陽成天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏 |
父母 | 父:源明、母:橘時子(橘氏公の娘) |
兄弟 | 舒、建、頴、遠 |
妻 | 不詳 |
子 | 善、元、実、厳 |
源 舒(みなもと の のぶる)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨源氏、参議・源明の長男。官位は正四位下・参議。西七条宰相と号す。
経歴
[編集]仁明朝において、蔵人を務めたのち、承和14年(847年)无位から従五位下に直叙される。文徳朝では、斉衡2年(855年)美濃権守、天安2年(858年)雅楽頭を歴任する。
同年8月に清和天皇が践祚し、9月に新体制に向けた任官が行われると左兵衛権佐に任ぜられ、同年11月の清和天皇の即位に伴い従五位上に叙せられる。清和朝では、貞観5年(863年)左近衛少将、貞観10年(868年)左近衛中将、貞観13年(871年)蔵人頭、貞観16年(874年)右大弁と文武の要職を兼ねる一方で、貞観6年(864年)正五位下、貞観9年(867年)従四位下、貞観15年(873年)に従四位上と順調に昇進を果たす。清和朝末の貞観17年(875年)には参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間の貞観14年(872年)には、渤海国大使・楊成規らが平安京に入京した際、勅使として鴻臚館に赴き、渤海国王・大玄錫の親書及び献上品の虎・豹・熊の毛皮と蜜などを実検し受け取っている[2]。
元慶元年(877年)に正四位下・左大弁に叙任され、陽成朝でも引き続き近衛中将に大弁と文武の顕職を務める。元慶3年(879年)に官人の給与に充てるために畿内諸国に計4000町の官田が設置(元慶官田)された際には、山城国班田使を務める[3]。
元慶5年(881年)2月に左大弁を去り、9月には左近衛権中将から右衛門督に転じたのち、同年11月29日薨去。享年54[1]。最終官位は参議正四位下行右衛門督兼讃岐守。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 承和12年(845年) 正月:蔵人[4]
- 承和14年(847年) 2月:辞蔵人[4]
- 承和15年(848年) 正月7日:従五位下(直叙)
- 斉衡2年(855年) 正月15日:美濃権介
- 天安2年(858年) 4月2日:雅楽頭。9月14日:左兵衛権佐。11月7日:従五位上
- 貞観2年(860年) 12月30日:次侍従
- 貞観5年(863年) 2月10日:左近衛少将
- 貞観6年(864年) 正月7日:正五位下。正月16日:兼備中権守
- 貞観8年(866年) 正月13日:兼近江権介
- 貞観9年(867年) 正月7日:従四位下
- 貞観10年(868年) 5月26日:左近衛中将[5]
- 貞観12年(870年) 正月25日:兼備中権守
- 貞観13年(871年) 3月:蔵人頭[4]
- 貞観15年(873年) 正月7日:従四位上
- 貞観16年(874年) 正月15日?:止備中権守[5]。2月29日:兼右大弁、左近衛中将如元[5]
- 貞観17年(875年) 9月7日:参議、去中将
- 貞観18年(876年) 正月14日:兼伊予権守。2月15日:兼近江権守
- 貞観19年(877年) 正月3日:正四位下。2月29日:兼左大弁
- 元慶2年(878年) 正月11日:兼左近衛権中将、兼官如元
- 元慶4年(880年) 正月11日?:止近江権守[5]
- 元慶5年(881年) 2月15日:兼讃岐守、止弁[4]。7月16日:兼右衛門督、止中将[4]。11月29日:薨去(参議正四位下行右衛門督兼讃岐守)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。