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源顕基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源顕基
時代 平安時代中期
生誕 長保2年(1000年
死没 永承2年9月3日1047年9月30日
別名 正字:顯基
官位 従三位権中納言
主君 後一条天皇
氏族 醍醐源氏高明流
父母 父:源俊賢
母:中納言の君(藤原忠君の娘)
兄弟 成尋阿闍梨母顕基隆国、隆縁
藤原実成の次女、藤原行成の長女
資綱、俊長、俊相
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源 顕基(みなもと の あきもと)は、平安時代中期の公卿醍醐源氏高明流、権大納言源俊賢の子。官位従三位権中納言後一条天皇側近として仕えた。

経歴

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三条朝初頭の寛弘8年(1011年従五位下叙爵し、長和2年(1013年侍従次いで右兵衛佐に任官する。長和2年(1013年)に左大臣藤原道長賀茂社に詣でた際にはこれに参じている[1]。長和3年(1014年左近衛少将に任ぜられると、長和4年(1015年)従五位上、長和5年(1016年正五位下寛仁2年(1018年従四位下と近衛少将を務めながら昇進を重ねた。治安3年(1023年)従四位上・右近衛権中将に叙任されるとともに、後一条天皇蔵人頭となり、翌万寿元年(1024年正四位下に叙せられる。

この間の治安4年(1024年)顕基の従者が左兵衛佐源資通の従者と闘乱を起こしたため勘事に処される[2]。また、長元元年(1028年)には顕基の従者が盗人に射殺されている[3]

長元2年(1029年従三位参議に叙任され公卿に列す。参議昇進後も引き続き近衛中将を務め周防権守伊予権守と地方官も兼帯した。長元8年(1035年権中納言に至る。しかし、翌長元9年(1036年)4月に後一条天皇が29歳で崩御すると、天皇の側近であった顕基は「忠臣二君に仕えず」として出家してしまった[4]

後冷泉朝永承2年(1047年)9月3日薨去享年48。

逸話

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風流貴公子であったと伝わり、多くの説話が残っている[5]。日頃より「咎なくて流罪とせられて、配所にて月を見ばや」(無実の罪で流罪となり、配所で月を見たいものだ)と語っていたという(『江談抄』)[6]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 御堂関白記長和2年4月23日条
  2. ^ 小右記治安4年3月4日条
  3. ^ 『小右記』長元元年11月3日条
  4. ^ 十訓抄
  5. ^ 『日本人名大辞典』
  6. ^ 『江談抄』巻3,第15話

参考文献

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