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源顕通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 顕通
時代 平安時代後期
生誕 永保元年(1081年
死没 保安3年4月8日1122年5月15日
別名 久我大納言
官位 正二位権大納言
主君 堀河天皇鳥羽天皇
氏族 村上源氏久我流
父母 父:源雅実、母:藤原師子(藤原師仲の娘)
兄弟 顕通雅定、女子、御匣殿
源能俊の娘
明雲雅通藤原親隆
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源 顕通(みなもと の あきみち)は、平安時代後期の公卿村上源氏太政大臣源雅実の長男。官位正二位権大納言久我大納言と号す。

経歴

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寛治5年(1091年元服し、従五位下叙爵。寛治6年(1092年侍従に任じ、寛治7年(1093年)従五位上次いで正五位下に陞叙される。

寛治8年(1094年左近衛権少将に任ぜられる。嘉保2年(1095年)には伊予介を兼任。嘉保3年(1096年従四位下次いで従四位上、永長2年(1097年)左近衛権中将に任ず。承徳2年(1098年)には蔵人頭に補任される。同年中に正四位下中宮権亮に叙任された後、康和元年12月(1100年1月)に参議に任ぜられて公卿に列す。康和2年(1100年従三位・伊予権守に叙任。

康和4年(1102年正三位に昇る。右近衛権中将を経て、長治3年(1106年権中納言に任ず。嘉承2年(1107年従二位皇太后権大夫に叙任され、天永2年(1111年右衛門督を務める。永久3年(1115年中納言保安3年(1122年)1月23日、権大納言に任ぜられたが、同年4月8日、胸病により薨去。享年42。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 寛治5年(1091年)正月7日:元服[1]、同月:従五位下(無品媞子内親王御給)
  • 寛治6年(1092年)11月:侍従
  • 寛治7年(1093年)正月3日:従五位上(院行幸賞)、2月12日:正五位下(郁芳門院入内日賞)
  • 寛治8年(1094年)3月:左近衛権少将、4月:禁色
  • 嘉保2年(1095年)正月:伊予介
  • 嘉保3年(1096年)正月:従四位下(少将如元)、2月7日:従四位上(親父雅實卿譲。日吉行幸行事賞)
  • 永長2年(1097年)正月:左近衛権中将(剰闕)
  • 承徳2年(1098年)正月27日:蔵人頭、4月2日:中宮権亮、12月17日:正四位下(前郁芳門院去寛治七年未給)
  • 康和元年12月14日(1100年1月26日):参議
  • 康和2年(1100年)正月:伊予権守、5月16日:従三位(日吉行幸行事賞)
  • 康和4年(1102年)正月2日:正三位(院行幸賞)
  • 康和5年12月21日(1104年1月20日):右近衛権中将
  • 長治3年(1106年)3月11日:権中納言
  • 嘉承2年(1107年):皇太后権大夫、従二位
  • 嘉承3年(1108年)3月20日:正二位(皇太后自内裏出御二條第賞)
  • 天永2年(1111年)正月23日:右衛門督
  • 永久3年(1115年)4月28日:中納言
  • 保安3年(1122年)正月23日:権大納言

系譜

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脚注

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  1. ^ 中右記』寛治5年正月7日条