源顕通
表示
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 永保元年(1081年) |
死没 | 保安3年4月8日(1122年5月15日) |
別名 | 久我大納言 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 村上源氏久我流 |
父母 | 父:源雅実、母:藤原師子(藤原師仲の娘) |
兄弟 | 顕通、雅定、女子、御匣殿 |
妻 | 源能俊の娘 |
子 | 明雲、雅通、藤原親隆室 |
源 顕通(みなもと の あきみち)は、平安時代後期の公卿。村上源氏、太政大臣・源雅実の長男。官位は正二位・権大納言。久我大納言と号す。
経歴
[編集]寛治5年(1091年)元服し、従五位下に叙爵。寛治6年(1092年)侍従に任じ、寛治7年(1093年)従五位上次いで正五位下に陞叙される。
寛治8年(1094年)左近衛権少将に任ぜられる。嘉保2年(1095年)には伊予介を兼任。嘉保3年(1096年)従四位下次いで従四位上、永長2年(1097年)左近衛権中将に任ず。承徳2年(1098年)には蔵人頭に補任される。同年中に正四位下・中宮権亮に叙任された後、康和元年12月(1100年1月)に参議に任ぜられて公卿に列す。康和2年(1100年)従三位・伊予権守に叙任。
康和4年(1102年)正三位に昇る。右近衛権中将を経て、長治3年(1106年)権中納言に任ず。嘉承2年(1107年)従二位・皇太后権大夫に叙任され、天永2年(1111年)右衛門督を務める。永久3年(1115年)中納言、保安3年(1122年)1月23日、権大納言に任ぜられたが、同年4月8日、胸病により薨去。享年42。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 寛治5年(1091年)正月7日:元服[1]、同月:従五位下(無品媞子内親王御給)
- 寛治6年(1092年)11月:侍従
- 寛治7年(1093年)正月3日:従五位上(院行幸賞)、2月12日:正五位下(郁芳門院入内日賞)
- 寛治8年(1094年)3月:左近衛権少将、4月:禁色
- 嘉保2年(1095年)正月:伊予介
- 嘉保3年(1096年)正月:従四位下(少将如元)、2月7日:従四位上(親父雅實卿譲。日吉行幸行事賞)
- 永長2年(1097年)正月:左近衛権中将(剰闕)
- 承徳2年(1098年)正月27日:蔵人頭、4月2日:中宮権亮、12月17日:正四位下(前郁芳門院去寛治七年未給)
- 康和元年12月14日(1100年1月26日):参議
- 康和2年(1100年)正月:伊予権守、5月16日:従三位(日吉行幸行事賞)
- 康和4年(1102年)正月2日:正三位(院行幸賞)
- 康和5年12月21日(1104年1月20日):右近衛権中将
- 長治3年(1106年)3月11日:権中納言
- 嘉承2年(1107年):皇太后権大夫、従二位
- 嘉承3年(1108年)3月20日:正二位(皇太后自内裏出御二條第賞)
- 天永2年(1111年)正月23日:右衛門督
- 永久3年(1115年)4月28日:中納言
- 保安3年(1122年)正月23日:権大納言