滝川具近
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 嘉永7年11月18日(1855年1月6日) |
別名 | 通称:三郎四郎 |
幕府 | 江戸幕府 小姓組、使番、大坂目付 |
主君 | 徳川家斉、家慶、家定 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 父:滝川監物(具昌?) |
子 | 具挙、京極高朗、蜷川親従、蜷川親敬 |
滝川 具近(たきがわ ともちか)は、江戸時代後期の旗本。通称は三郎四郎。
生涯
[編集]禄高1200石の旗本・滝川監物(『寛政重修諸家譜』の滝川監物具昌[1]か)の子[2](または養子)。
天保15年(1844年)、小姓組の番士から使番に任命され[3]、布衣の着用を許された[4]。弘化4年(1847年)4月、惣領(嫡男)の銀蔵(具挙)が召し出されて小姓組に入番した[5]。
同年7月、使番から1年交代で出向する大坂目付代を命ぜられ、大坂に赴任した[6]。翌嘉永元年(1848年)11月、大坂目付代の任期を満了して江戸に戻った[7]。
嘉永7年(1854年)1月、前年に浦賀に来航して開国を求めたペリーの率いるアメリカ艦隊が再来航すると神奈川に偵察として派遣された[8]。
同年11月に現職の使番のまま没した[9]。
嫡男の滝川具挙が跡を継ぎ、幕末に大目付になった。次男は旗本京極家(2000石)に養子入りして京極高朗を名乗り、文久遣欧使節の目付を務めた[10]。三男は旗本蜷川家(500石)に養子入りして蜷川親従を名乗るが早逝、四男がその末期養子に入って蜷川親敬を名乗り[11]、幕府陸軍の将校になった[2]。
脚注
[編集]- ^ 『寛政重脩諸家譜 第3輯』國民圖書、1923年、427頁。
- ^ a b 熊井保 編『江戸幕臣人名事典』改訂新版、新人物往来社、1997年、791-792頁。
- ^ 「慎徳院殿御実紀」巻8、弘化元年1月11日条。(『徳川実紀 續』第3篇、経済雑誌社、1906年、347頁。)
- ^ 「慎徳院殿御実紀」巻8、弘化元年12月16日条。(『徳川実紀 續』第3篇、経済雑誌社、1906年、377頁。)
- ^ 「慎徳院殿御実紀」巻11、弘化4年4月16日条。(『徳川実紀 續』第3篇、経済雑誌社、1906年、468頁。)
- ^ 「慎徳院殿御実紀」巻11、弘化4年7月28日条。(『徳川実紀 續』第3篇、経済雑誌社、1906年、479頁。)
- ^ 「慎徳院殿御実紀」巻12、嘉永元年11月1日条。(『徳川実紀 續』第3篇、経済雑誌社、1906年、520頁。)
- ^ 田保橋潔『近代日本外国関係史』刀江書院、1930年、657頁。
- ^ 『柳営補任』3、東京大学出版会、1964年、221頁。
- ^ 林昇撰「越前守京極府君大信之墓碑銘」(『墓碑史蹟研究』23、墓碑史蹟研究発行所、1925年8月、219-221頁。)
- ^ 人間文化研究機構国文学研究資料館「東京都諸家文書目録(その2)」『史料目録』第116集、大学共同研究機関法人人間文化研究機構国文学研究資料館学術資料事業部、2023年3月、56-101頁、ISSN 2435-2055。